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仮面ライダーゴーストは、その名の通り、「幽霊」というか「霊魂」というか、
死んで生き返ったことによって特殊な能力を身につけたヒーロー。
(順番からして映画「ゴーストライダー」の亜流に見えるかも知れないが、
人が人あらざる者になるというモチーフは初代「仮面ライダー」からあり
「仮面ライダー555」などでも繰り返し扱われてきた)
「魂」などのワードも重要な、仮面ライダーゴースト。
内容はここでは措いておいて、主題歌
「われら思う故にわれら在り」。
デカルトの有名な言葉、「われ思う故にわれ在り」をもじっていることが明らかだろう。
歌詞の中で、ストレートに「死」という単語が出てくる。
直接引用は避けるが(また正確に覚えてもないし)
「誰だって死ぬ、君も僕も」「だから精一杯いきようぜ」的なメッセージが謳われる。
子供番組として、これ聞いた子供がどういうリアクションをするのかなど
お子さんをお持ちの親御さんの体験談などを聞いてみたい興味はあるが、
今回はそういう話ではなく、
歴史上の偉人が「魂」として仮面ライダーに憑依する、というこの番組において
哲学史の重要人物デカルトの引用が行われていることの意味を考えておきたい。
自分が「在る」ということは、どういうことなのか、という問いの答えとして
「思考」を結論としたデカルト。
(デカルトが番組内で「デカルト魂」として登場するのかどうかという疑問も湧くが
ビジュアルにしにくいため、おそらくないとまずは予想される)
「思う」は「思考」のことだが、
この主題歌に於いてはもっと平易に、例えば「想う」などと表記されることもあるような
ぼんやりとしたものも含めて、人が誰しも持っているような感覚を総称しているのだろう。
古今、歌謡曲などでは「君も僕も同じ思いを抱いている」といった形の連帯などがテーマになるが
ここでは
「(思いの内容は同じではないかも知れないが)君も僕も「思う」という点では同じであるし」
中身はバラバラであっても「最後は死ぬ」という点でも「君と僕は同じ」だよと
連帯とか共感(もっと適切な言葉がありそうだがとりあえず、そういった感じのヤツ)を謳う。
「存在論」とか「観念論」とかの領域に入っていくのだろうか、
そんな一方、仮面ライダーゴーストに半年遅れて最近始まった
「動物戦隊ジュウオウジャー」。
主人公のレッドは人間として、他四人の動物と人間の中間のようなメンバーを率いている。
「人間だって動物だ」が、決めセリフとして登場。
第2話から登場したオープニングでは、この5人を「群れ」と称した。
玩具のモチーフとして「キューブ」が登場し、これが各々の動物メカに変型するが、
この「キューブ」が、生命を成立させる「最小単位」である細胞のモチーフとして
見ることが出切るのではないか、
というのが私の見立てである(放送開始当時のブログにも書いた)。
戦隊シリーズではロボへの合体・変形プロセスに毎年趣向が凝らされるが、
今回の、「キューブが積み重なって一本の剣がそれを貫いて人の形になる」というそれに
「細胞同士の繋がりに、一本の管あるいは脊髄が通ることで、活動可能な身体を獲得する」
という、生命の誕生や進化の過程のメタファーを見る。
ジュウオウジャーが「生命」をモチーフとしていることに、
仮面ライダーゴーストを対置した時に、そこに見えてくるのは「精神」となるだろうか。
ジュウオウジャーが「生」を基調として「(動物と人間の)同一性」を見せ、
ゴースト(の主題歌)が「精神」を基調として「(人間と人間の)同一性」を謳う。
(ここに「ウルトラマンコスモス」を挟むと、また面白いのだが一旦措いて別の機会に)
「君も僕も生きている」という点で「人間も動物も同じ」とするのがジュウオウジャーなら
「君も僕も死ぬんだ」という点で「人間誰も同じ」としているのがゴースト(の主題歌)。
となると、次はこういう問いが問われるだろう。
「君も僕も死ぬんだ」という点で「人間も動物も同じ」とは言えないのだろうか、と。
たしかに人間も動物も死ぬのだが、
しかし、「おそらく」という留保を一応つけるが動物は
「死」を自分の観念として持っていない。
殺し殺される関係として、他者の死あるいは死体を目にすることはあっても
自分の「生」の先にある「死」を概念として持っていないのだろう。
(人間の場合「生」は「人生」であるが、動物にはまたそれに相当する観念、
すなわち「死」に対置されて観念される「生」は無いと思われる)
人間が他者の死を悼み、弔いの儀式を行うのは、
自分の観念として「死」を持っているからだろう。
動物の「内面」をつぶさに観察することはできないが、
少なくとも弔いの儀式などを行わない彼らは
「死」を自分の「生」と共にあるものとしては持っていない。
毎日の眠りのようなものとして生物としての終わりを迎えるのだろう。
といったようなことをおそらく動物は考えない、という意味で
人間の「死」とは異なる。
人間が自分の「生」(人生)を生きられるのは、この「死」を観念として持っているから、
つまり「死」を意識していることと関係がある。
(「死」を知っていることが「生」に実質を与える、など様々な言い換えが出来るだろう)
この自分が必ず至るはずの「死」を意識し、そこに端を発して「生」を意識すること、
ここに於いて、人間と動物の境がありそうだ。
「人間と動物は同じ」とするジュウオウジャーが自分たちを「群れ」と称していることは
また、今の人びとの在りように思いを致すという意味で興味深い。
いじめなどが社会問題となって久しく、ネットでは他人への「叩き」と言われる振る舞いが
日常化している昨今、
「死」や「生」が、他人のこととして、「叩いてみたら死んじゃった」みたいなことになってやしないか。
これは動物の集まりが「群れ」と呼ばれることと関係ありはしないか。
「死」と「生」を自分のものとし、
同じように自分のものとしている他者がいて、
そういう自分と他者を「われわれ」と称する、
つまり氣志團(仮面ライダーゴーストの主題歌を歌っている)が謳うような
「われら」に「われら」はなっていないのではないだろうか。
そのような「われら」は「群れ」とは一線を画しているはずであろう。
(ブログの別項で触れた東浩紀の「動物化するポストモダン」も引き合いに出すべきところだが
まとまらなくなるのでここではやめておく)
ブルースリーの言葉なのだそうだが「考えるな感じろ」というフレーズがある。
しかし、こと「死」に関しては、身体感覚だけで済む問題ではないだろう。
「感じつつ考えろ」
そういう態度が、動物と人間の差異には横たわっているのではないだろうか。
生命と精神。
日曜の朝の子供番組に、そんなテーマを重ねて見ることが可能なことは
面白いと思っている。
死んで生き返ったことによって特殊な能力を身につけたヒーロー。
(順番からして映画「ゴーストライダー」の亜流に見えるかも知れないが、
人が人あらざる者になるというモチーフは初代「仮面ライダー」からあり
「仮面ライダー555」などでも繰り返し扱われてきた)
「魂」などのワードも重要な、仮面ライダーゴースト。
内容はここでは措いておいて、主題歌
「われら思う故にわれら在り」。
デカルトの有名な言葉、「われ思う故にわれ在り」をもじっていることが明らかだろう。
歌詞の中で、ストレートに「死」という単語が出てくる。
直接引用は避けるが(また正確に覚えてもないし)
「誰だって死ぬ、君も僕も」「だから精一杯いきようぜ」的なメッセージが謳われる。
子供番組として、これ聞いた子供がどういうリアクションをするのかなど
お子さんをお持ちの親御さんの体験談などを聞いてみたい興味はあるが、
今回はそういう話ではなく、
歴史上の偉人が「魂」として仮面ライダーに憑依する、というこの番組において
哲学史の重要人物デカルトの引用が行われていることの意味を考えておきたい。
自分が「在る」ということは、どういうことなのか、という問いの答えとして
「思考」を結論としたデカルト。
(デカルトが番組内で「デカルト魂」として登場するのかどうかという疑問も湧くが
ビジュアルにしにくいため、おそらくないとまずは予想される)
「思う」は「思考」のことだが、
この主題歌に於いてはもっと平易に、例えば「想う」などと表記されることもあるような
ぼんやりとしたものも含めて、人が誰しも持っているような感覚を総称しているのだろう。
古今、歌謡曲などでは「君も僕も同じ思いを抱いている」といった形の連帯などがテーマになるが
ここでは
「(思いの内容は同じではないかも知れないが)君も僕も「思う」という点では同じであるし」
中身はバラバラであっても「最後は死ぬ」という点でも「君と僕は同じ」だよと
連帯とか共感(もっと適切な言葉がありそうだがとりあえず、そういった感じのヤツ)を謳う。
「存在論」とか「観念論」とかの領域に入っていくのだろうか、
そんな一方、仮面ライダーゴーストに半年遅れて最近始まった
「動物戦隊ジュウオウジャー」。
主人公のレッドは人間として、他四人の動物と人間の中間のようなメンバーを率いている。
「人間だって動物だ」が、決めセリフとして登場。
第2話から登場したオープニングでは、この5人を「群れ」と称した。
玩具のモチーフとして「キューブ」が登場し、これが各々の動物メカに変型するが、
この「キューブ」が、生命を成立させる「最小単位」である細胞のモチーフとして
見ることが出切るのではないか、
というのが私の見立てである(放送開始当時のブログにも書いた)。
戦隊シリーズではロボへの合体・変形プロセスに毎年趣向が凝らされるが、
今回の、「キューブが積み重なって一本の剣がそれを貫いて人の形になる」というそれに
「細胞同士の繋がりに、一本の管あるいは脊髄が通ることで、活動可能な身体を獲得する」
という、生命の誕生や進化の過程のメタファーを見る。
ジュウオウジャーが「生命」をモチーフとしていることに、
仮面ライダーゴーストを対置した時に、そこに見えてくるのは「精神」となるだろうか。
ジュウオウジャーが「生」を基調として「(動物と人間の)同一性」を見せ、
ゴースト(の主題歌)が「精神」を基調として「(人間と人間の)同一性」を謳う。
(ここに「ウルトラマンコスモス」を挟むと、また面白いのだが一旦措いて別の機会に)
「君も僕も生きている」という点で「人間も動物も同じ」とするのがジュウオウジャーなら
「君も僕も死ぬんだ」という点で「人間誰も同じ」としているのがゴースト(の主題歌)。
となると、次はこういう問いが問われるだろう。
「君も僕も死ぬんだ」という点で「人間も動物も同じ」とは言えないのだろうか、と。
たしかに人間も動物も死ぬのだが、
しかし、「おそらく」という留保を一応つけるが動物は
「死」を自分の観念として持っていない。
殺し殺される関係として、他者の死あるいは死体を目にすることはあっても
自分の「生」の先にある「死」を概念として持っていないのだろう。
(人間の場合「生」は「人生」であるが、動物にはまたそれに相当する観念、
すなわち「死」に対置されて観念される「生」は無いと思われる)
人間が他者の死を悼み、弔いの儀式を行うのは、
自分の観念として「死」を持っているからだろう。
動物の「内面」をつぶさに観察することはできないが、
少なくとも弔いの儀式などを行わない彼らは
「死」を自分の「生」と共にあるものとしては持っていない。
毎日の眠りのようなものとして生物としての終わりを迎えるのだろう。
といったようなことをおそらく動物は考えない、という意味で
人間の「死」とは異なる。
人間が自分の「生」(人生)を生きられるのは、この「死」を観念として持っているから、
つまり「死」を意識していることと関係がある。
(「死」を知っていることが「生」に実質を与える、など様々な言い換えが出来るだろう)
この自分が必ず至るはずの「死」を意識し、そこに端を発して「生」を意識すること、
ここに於いて、人間と動物の境がありそうだ。
「人間と動物は同じ」とするジュウオウジャーが自分たちを「群れ」と称していることは
また、今の人びとの在りように思いを致すという意味で興味深い。
いじめなどが社会問題となって久しく、ネットでは他人への「叩き」と言われる振る舞いが
日常化している昨今、
「死」や「生」が、他人のこととして、「叩いてみたら死んじゃった」みたいなことになってやしないか。
これは動物の集まりが「群れ」と呼ばれることと関係ありはしないか。
「死」と「生」を自分のものとし、
同じように自分のものとしている他者がいて、
そういう自分と他者を「われわれ」と称する、
つまり氣志團(仮面ライダーゴーストの主題歌を歌っている)が謳うような
「われら」に「われら」はなっていないのではないだろうか。
そのような「われら」は「群れ」とは一線を画しているはずであろう。
(ブログの別項で触れた東浩紀の「動物化するポストモダン」も引き合いに出すべきところだが
まとまらなくなるのでここではやめておく)
ブルースリーの言葉なのだそうだが「考えるな感じろ」というフレーズがある。
しかし、こと「死」に関しては、身体感覚だけで済む問題ではないだろう。
「感じつつ考えろ」
そういう態度が、動物と人間の差異には横たわっているのではないだろうか。
生命と精神。
日曜の朝の子供番組に、そんなテーマを重ねて見ることが可能なことは
面白いと思っている。
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オープニングで「戦隊」を「群れ」と言い換えていたのはとても面白い。
前近代的でありながら、現代的な意味も感じられるという意味で。
この番組を通して、中沢新一やレヴィ=ストロースの
野生に関する本に触れる人が増えることはほぼ間違いないと思われる。
ちなみに、ジュウオウライオン、レオの髪型がソバージュ(sauvage)だが
これはフランス語で野生を意味する。
セラが東京ドームシティの噴水で泳いでいたが
戦隊やライダー恒例の、新人俳優を水に落とすシーンで
後楽園ゆうえんちの水に落としたのは史上初ではなかろうか。
戦隊やライダーには劇場用作品にお笑いタレントがゲスト出現することが多いが
ジュウオウジャーは、「ダンソン♪」と言いながら獣を捕まえて「ニーブラ」という
あの二人(名前出てこないが)しかないであろう。
人々を羽交い締めにして「ニーブラ」と叫びながらハンティングする
敵「ニーブラジャー」が出現。
クライマックスはジュウオウジャーVSニーブラジャーという展開はいかがか。
ジューマンの人たちが貨幣経済を知っていたり、
お風呂、という概念(水浴びではなくお風呂)を知っていたという描写は
もうちょっと面白くできたシーンではないだろうか。
前近代的でありながら、現代的な意味も感じられるという意味で。
この番組を通して、中沢新一やレヴィ=ストロースの
野生に関する本に触れる人が増えることはほぼ間違いないと思われる。
ちなみに、ジュウオウライオン、レオの髪型がソバージュ(sauvage)だが
これはフランス語で野生を意味する。
セラが東京ドームシティの噴水で泳いでいたが
戦隊やライダー恒例の、新人俳優を水に落とすシーンで
後楽園ゆうえんちの水に落としたのは史上初ではなかろうか。
戦隊やライダーには劇場用作品にお笑いタレントがゲスト出現することが多いが
ジュウオウジャーは、「ダンソン♪」と言いながら獣を捕まえて「ニーブラ」という
あの二人(名前出てこないが)しかないであろう。
人々を羽交い締めにして「ニーブラ」と叫びながらハンティングする
敵「ニーブラジャー」が出現。
クライマックスはジュウオウジャーVSニーブラジャーという展開はいかがか。
ジューマンの人たちが貨幣経済を知っていたり、
お風呂、という概念(水浴びではなくお風呂)を知っていたという描写は
もうちょっと面白くできたシーンではないだろうか。
戦隊メンバーに女性が二人いる場合、
たいがい、片方がキレイ系、もう片方がカワイイ系という場合が多いと思うが
今年のジュウオウジャーは二人ともキレイ系、と個人的には見える。
キャラクターとして、アムの方にやや子供っぽさが配分されているようだが
キャスト自体は、ややお姉さん系か。
「光戦隊マスクマン」も、女性二人ともお姉さん系で、
個人的には萌え要素低めであった(当時はそんな言葉はなかったが)。
1話を見る限り、笑顔だけで言うとセラの方が、八重歯があったりして
ややコケティッシュ感があったような気もするので(なんだコケティッシュ感て)
今後、もしかするとカワイイ成分をセラの方が発揮していくような予感がしなくもない。
たいがい、片方がキレイ系、もう片方がカワイイ系という場合が多いと思うが
今年のジュウオウジャーは二人ともキレイ系、と個人的には見える。
キャラクターとして、アムの方にやや子供っぽさが配分されているようだが
キャスト自体は、ややお姉さん系か。
「光戦隊マスクマン」も、女性二人ともお姉さん系で、
個人的には萌え要素低めであった(当時はそんな言葉はなかったが)。
1話を見る限り、笑顔だけで言うとセラの方が、八重歯があったりして
ややコケティッシュ感があったような気もするので(なんだコケティッシュ感て)
今後、もしかするとカワイイ成分をセラの方が発揮していくような予感がしなくもない。
個人的には「忍者戦隊カクレンジャー」のレッド像に
それまでと違いが生じたのを感じた記憶がある。
カクレンジャーでは、主人公はレッドではあるが
グループ(つまり戦隊)を率いるリーダはホワイト(女性)だったのだが、
割と近年、リーダーらしいリーダーが設定されない傾向が多いようで
「侍戦隊シンケンジャー」は、例外中の例外で
レッドが殿様で、それ以外が家臣という身分の違いが存在した。
「海賊戦隊ゴーカイジャー」も、強引に部下を引っ張るタイプ。
基本的には、メンバーの中でなんらかの秀でた特性を持っているが故に
全体を引っ張るというリーダーよりも、
おつむは弱いがノリでみんなをリードする、というタイプのレッドが
続いている。
前年の「手裏剣戦隊ニンニンジャー」はその典型だったのだが(ずばり「バカ」と称されていた)、
今年の「動物戦隊ジュウオウジャー」も、動物学の先生(だったかな)という設定ではなるが
割とレッドがコミカルなテイストを帯びた人物として
描かれているようだ。
これはおそらく、一般的に求められるリーダー像の変化を反映しているのだろう。
かつては、尊敬されるような人物像が、尊敬されなくなり、
みんなが「ついていこう」とする者をリーダーにするのではなく、
同じノリを共有できる仲間として、そのノリを強く体現できる人が求められているのだろう。
昨今、海外で活躍するジャーナリストなどについて、
どうやらかつては敬意の対象であった行為が
そうでもなくなって来ている言説を耳に(目に)するにつけ
そう思うのである。
それまでと違いが生じたのを感じた記憶がある。
カクレンジャーでは、主人公はレッドではあるが
グループ(つまり戦隊)を率いるリーダはホワイト(女性)だったのだが、
割と近年、リーダーらしいリーダーが設定されない傾向が多いようで
「侍戦隊シンケンジャー」は、例外中の例外で
レッドが殿様で、それ以外が家臣という身分の違いが存在した。
「海賊戦隊ゴーカイジャー」も、強引に部下を引っ張るタイプ。
基本的には、メンバーの中でなんらかの秀でた特性を持っているが故に
全体を引っ張るというリーダーよりも、
おつむは弱いがノリでみんなをリードする、というタイプのレッドが
続いている。
前年の「手裏剣戦隊ニンニンジャー」はその典型だったのだが(ずばり「バカ」と称されていた)、
今年の「動物戦隊ジュウオウジャー」も、動物学の先生(だったかな)という設定ではなるが
割とレッドがコミカルなテイストを帯びた人物として
描かれているようだ。
これはおそらく、一般的に求められるリーダー像の変化を反映しているのだろう。
かつては、尊敬されるような人物像が、尊敬されなくなり、
みんなが「ついていこう」とする者をリーダーにするのではなく、
同じノリを共有できる仲間として、そのノリを強く体現できる人が求められているのだろう。
昨今、海外で活躍するジャーナリストなどについて、
どうやらかつては敬意の対象であった行為が
そうでもなくなって来ている言説を耳に(目に)するにつけ
そう思うのである。
ジュウオウジャーのプレミア発表会で流れた予告のなか、
一番、印象に残ったのは、主人公によるせりふ(たぶん決めゼリフ)
「人間だって動物だ!」。
動物戦隊ジュウオウジャーは
レッドのみが人間で、他の四人は動物(の特性をそなえた異世界の存在かなにか)。
そこで、このセリフ。
「人間だって動物だ」は、人間と動物の、垣根を越えた連隊や友愛などを謳う言葉なのであろう、
と、プレミア発表会の予告を見た時にそう感じて、軽く感動したのだが
後でよく考えてみると、
「人間=動物」とすることに、別の意味を読むこともできる。
ロシア出身の哲学者アレクサンドル・コジェーヴが「ヘーゲル読解入門」の中で
近代を経て歴史の終焉、ポストモダン(この本の日本語訳ではポスト歴史とされている)の典型を
日本に見ていた。
日本では東浩紀が「動物化するポストモダン」この議論を受けて
オタク文化を軸に、ポストモダンにおける人間像を描写していた。
近代的な人間像を経た後の人間は“動物化”する、という議論である。
まさかジュウオウジャーの中でポストモダンの議論を受けた形のものが展開されるとは思わないが、
ちょっとそんなことを念頭に置いて、この後の一年を楽しみにしてみたいと思う。
一番、印象に残ったのは、主人公によるせりふ(たぶん決めゼリフ)
「人間だって動物だ!」。
動物戦隊ジュウオウジャーは
レッドのみが人間で、他の四人は動物(の特性をそなえた異世界の存在かなにか)。
そこで、このセリフ。
「人間だって動物だ」は、人間と動物の、垣根を越えた連隊や友愛などを謳う言葉なのであろう、
と、プレミア発表会の予告を見た時にそう感じて、軽く感動したのだが
後でよく考えてみると、
「人間=動物」とすることに、別の意味を読むこともできる。
ロシア出身の哲学者アレクサンドル・コジェーヴが「ヘーゲル読解入門」の中で
近代を経て歴史の終焉、ポストモダン(この本の日本語訳ではポスト歴史とされている)の典型を
日本に見ていた。
日本では東浩紀が「動物化するポストモダン」この議論を受けて
オタク文化を軸に、ポストモダンにおける人間像を描写していた。
近代的な人間像を経た後の人間は“動物化”する、という議論である。
まさかジュウオウジャーの中でポストモダンの議論を受けた形のものが展開されるとは思わないが、
ちょっとそんなことを念頭に置いて、この後の一年を楽しみにしてみたいと思う。