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特撮・アニメの作品レビューの同人誌を発行しています 大泉パラダイスのブログです。
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爆報フライデーで

金八先生(第一シリーズ)の、宮沢保(杉田かおるの相手役)と

その母親役を演じた髙田敏江の再会場面があった。

思わずもらい泣き。
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今の若い人は、という出だしでものを語ることはラスコーの壁画にも書かれていることらしいので

避けたいと思いつつ、話の枕として使いやすいので使ってしまうが

今の若い人たちは、おそらく「注意され慣れていない」と感じる。


電車の中で、おばあさんが自分の孫に優先的に座らせている光景などを見ると、

この孫がこのおばあさんに本当の意味で有り難みを感じることはないのではないかと思う。

おそらく「注意する」だけの権威やら自信やらと言ったものが

既に大人の側の手中にはな無いのではないか。

たぶんネットでの荒れた言動や、公共の場での傍若無人ぶりは

「注意を受けない」という言い方は所詮、その象徴でしかない「教えられずに育って」ことの

現れではないだろうか。

「しつけを受けていない」というよりも、

一時期、「荒れた学級」の言葉をマスコミで聞いたが、

大人から子供への、生の声でのものの述べ伝えが、今かなり失われているのではないだろうか。

このブログの先の記事、昔ばなし研究所の小澤俊夫の話とも通じるが、

生の声による述べ伝え、教え、注意、しつけなどの不可能性と

スマホなどを与える親のメンタリティは通底しているのだろうと強く感じるのである。


しかし、私自身、電車に乗ったりお店に入ったりして若い人と軽く言葉を交わしたりすると感じることだが、

こちらの話の仕方、語りかけ方によっては、意外なほどまっとうなリアクションが返ってくることもまた確かなのである。

「捨てたものではない」という言い方があるが、

働きかける側が「捨てて」しまったら、あるいは「捨て鉢」になってしまったら、

光や水を受けて育つはずの芽も、育たないのではないだろうか。


冒頭に「今の若い者は」とわざと始めはしたが、

まったく若い人だけの問題ではないと思っているのである。

むしろ、我々よりも長く生きているはずの年長世代の行為に疑問を抱かざるを得ないことが多い。

もちろん、他山の石である。


自分がどういう年寄りになっていくのか、ということから離れて

あらゆる問題を考えることは出来ないと思っている。


映画「もののけ姫」は、主人公が呪いを受けて旅に出る。

このことを宮﨑駿は、今の子供たちが祝福されずに生まれてきたことのメタファーである
(文言は私の記憶で、全然違うと思いますが意味は合ってるはずと思って書いています)
と語っているが
映画としての表現のように「呪われている」とまでは言わないものの
「祝福されずに生まれてきた」ということの意味は、
いろいろであろうが、祖母が孫に電車の席を与えてやるような行為は
孫のためを思っての善意であるには違いないのであろうが、
それは直近の披露を防止できる程度の意味としてしか機能しないのであって
長い目で見て、その子供が「祝福されている」といった自覚への辿り着きを
むしろ阻んでいるのではないだろうか。
お恥ずかしながら、その存在を初めて知った方だが

大変感銘を受けた。

昔話が語られる時に、残酷なシチュエーションが削られがちである。

私自身も、中友人から「昔ばなしって本当は残酷なんだぜ」てな話を聞いたのが

中高生の頃であり、子供時代にはそれらの薄まったものを受容していたという自覚は

その時に得ていた。


そして、今日の小澤俊夫の話。

昔ばなしに本来あった「残酷さ」は

人間が生きていくために、避けて通れない、魚や肉を食べることと不可分である「残酷さ」である。


「昔ばなしは隔世遺伝」という言葉もあり、伊集院光も感銘を受けていた。



昔ばなしは、人間が生きてきた歴史を語っている。

そして、そこから、例えば「残酷さ」を間引いて伝えようとする「善意」が

大事なことを骨抜きにしているのだということに気付かなければならないだろう。

「子供たちの世代に大切なものを伝えたい」式のよく聞かれるフレーズの発話者に

そのような自覚はあるだろうか。


無批判にスマホを与えるような、あるいはマクドナルドで食事を済ませるような子育ては

肉声による語りをないがしろし、人間の寄って来たるところを忘れているのだろう。



ちなみに伊集院が「口伝」(くでん)の読み方を知らなかったのを小澤先生からオンエアの裏で指摘されたことと語っているが

個人的にはこの言葉を知ったのは

アニメ「伝説巨人イデオン」の、小説版の冒頭が

「口伝である」であるからだ。

我々オタクの基礎教養はアニメもさることながら

それに付随する書籍によって基礎づけられている。

子供の頃にまっとうに与えられるべき「口伝」が、

サブカルチャーによって与えられていた面があるのは

必ずしも卑下すべきことではないだろう。

そこをとっかかりにして、昔ばなしへ戻ることは今からでも可能なのだから。



身近な大人の生の声が子供に入ることが大事と、小澤は「人生を賭けた主張」として語る。

思春期になって自分が愛されていると思えることが大事、

自分が信頼されている、価値が認められていると感じられること。

その第一歩は、身近な大人が生の声でものを伝えること。

スマホに限らず、テレビを子育てに利用する時代から

その問題はとっくに始まっているのである。

我々の世代は実は、「自覚」としてその問題に気付いてきたが

そのことがあまりにも伝わっていないことが

スマホを子供に与えることの無批判さに現れているのだろう



今の子供・若者たちは、我々の頃に比べてひどく残酷に見える。

いじめの問題もさることながら、ツイッターで他人を追い込んでいく様子などにそれが感じられる。

電車に乗っても、他人の存在にひどく無頓着なのは、ネットでの他人に対する残酷な振る舞いと

おそらく通底しているのだろう。

人間が生きる上で、根源的な避けることのできない「残酷さ」を知らずに育っていることが

これらのような残酷な「振る舞い」に現れているのではないだろうか。

まあ、私は研究者でもなんでもないので、その過程にいかなるロジックが存在するのかは

想像するしかないのだが、

自分の中に自覚される「残酷さ」に対する「馴致」があまりにも出来ていないために

他人への発露として、あるいは他人に対する試しとして発現してしまっているのではないだろうか。




この小澤先生、伊集院の言うことにことのほか感心して頷いてくれるのである。

自分の発言や主張をこれだけ年配のすごい人に肯定的にリアクションしてもらえるのは

それは嬉しいことだろうなあと羨ましくさえ思うのだが

昨今、この「承認欲求」あるいは「承認を与える行為」といったものが

ひどく、低劣な次元で行われているのではないだろうか。

当ブログの別の記事とも重複するが

おばあさんが孫かわいさに電車の中で優先的に座らせてあげたりすることは

むしろ、十全になされるべき承認欲求の満たしとは、遠く離れたところにあるものなのではないだろうか。

穿った見方をすれば、孫の側からすれば、この年長者からはろくなものを与えられない

という感情さえ芽生えるのでは、という老婆心を老婆よりも抱いてしまいそうになる。


昨今、ツイッターで、悪口などが多くリツイートされるなどすることによる

一種の「承認」は、このような負のサイクルの中の一環を成しているのではないだろうか。


残酷さを隠蔽しようとする「善意」に基づいた営為が

残酷さなんて隠しようがないじゃないか、という押さえきれない「自然な」発露として

今、ネットや公共の場で噴出しているのではないだろうか。



もっと言うなら、善行をやっても承認されないのに

悪いことをした方が承認される、そんな育ち方がほんの一部とは言えないまでになっているのではないだろうか。


ろくでもないことだとは薄々分かっていながら

「流れ」がそっちへ行っているから仕方無い、もう後戻りできない

そんな価値観が広がってしまっているのではないだろうか。



本来なら寄り添いたい、寄り添われたい価値から

多くの人が、遠ざけられていると感じ、にっちもさっちも行かなくなった結果、

手近にあるネットや通信機器への安易な依存に促されているのではないだろうか。



しかし、そういう人たちにこそ、今、昔ばなしや古典など、

確認してみるに値する価値が、本という名の(形の)パッケージとして

常にあるのではないだろうか。

いや、別に図書館や本屋の回し者でもなんでもないのだが、

与えてほしかった、おじいちゃんおばあちゃんからのぬくもりの片鱗は

そういう所にあるのではなかろうか。
同著者の本を購入していたので、メールで発売のお知らせが来たので

早速買いに行ったが、

奥付を見たところ、二刷り。

そういうのを特に気にするわけでもないのだが、

一刷りから10日後に二刷りになっているという、そんなに人気があるという訳でもなさそうなのに

といった辺りが気になって、他の書店でも探してみたところ

初版の本はすぐ見つかって、そこで購入。
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