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たまむすび(TBSラジオ)の中での、町山智浩の
『1月にした早くも2016年の映画ナンバー1決まり』という強い推しっぷりに
観にいきたくなった。
なんかタイトルが「ハウルの動く城」みたいだなあ、などと一旦想像したら
チケット窓口で「サウルの動く城」と言ってしまうのではないか不安に駆られてしまった。
無事チケットを買った後でも「サウルの城」と自分は言ってしまっていたんじゃないかと
軽く不安になったが、チケットを手にしているということは事なきを得たのだろう。
さて、映画だが町山智浩の解説を先に聞いていたおかげで
その特殊な演出に戸惑うことなく、映画全体の演出意図はすぐに理解できた。
主人公を長回しで追いかけるカメラは、時に背中を画面中央に捉えつつ
観客を主人公の体験と同化させ、主観映像のようにユダヤ人収容所の中を観客に見せる。
主人公がいるその場の周囲の風景にはピントが甘くなっており、
自然、観客は何が写っているんだろうと、目を凝らし、
起こっている出来事を目撃しようと促される。
多くの場合、裸の死体が写っており、
観客におぞましい事実に主体的に立ち会わせようという演出意図ど同時に、
裸体にボカす機能も副次的にではあるが果たしているとも言えるだろう。
映像の刺激の強さで、事の重大さを認識させるタイプとは正反対にある手法であり、
観客が事態を把握しようとする能動性を惹起しようとする演出である。
『見せられている』のではなく『見ようとする』姿勢を喚起するということは
逆に『見ようとしない』、あるいは『見まいとする』姿勢を導出する可能性もあるということでもある。
私の意識は、こちらに働いた。
決して、悲惨な現実から目を背けようとした訳ではないのだが、
広く知られた出来事でもあり、また人間による人間に対する愚かな行為という意味では
『無理に見るまでもない』と判断して、映画の作りそのものの意識を働かせて見た。
そうした人間の行為は映画でわざわざ見るまでもなく、おおよそ見当が付く、と言ったら
言い過ぎだろうか。
そう思ってしまったのは、別の理由もある。
小劇場系の映画館と言ってよいのだろうか、初めて行く映画館での上映だった今回の映画。
たとえば神保町にある岩波ホールなどは、小屋それ自体も気品がある上、
従業員やお客さんの挙措が上品で、普通の映画館とはさすが客層が違うと感じたもので、
今回もそういう映画館だと事前に勝手に思い込んでしまった自分のせいもあるのだが、
それこそ「普通」の映画館体験であった。
チケットカウンターの従業員も、客の座席選択にあまり親身な印象を与えない感じ。
客も、座っている私の前の隙間を通る時に、数人が会釈なく素通り。
他にも短時間にいろいろあったのだが、くどくなるので書かずにおくが
そんなこんなで、狭い空間で不愉快な思いをするという点では、
収容所で虐殺されたユダヤ人と負けず劣らず同じだとは言わないが、
映画の内容とともに、自分の置かれた環境もこみで、気分が悪くなったことは確かである。
おそらく、他人のマナーに文句をつけたくなって内心穏やかでなくなるくらいなら、
気にしないようにすることで、お互い平穏、というのが
人びとの振る舞いに見られる傾向だろう。
しかし、そうした無感覚状態に自分を置こうとすることもまた
過去の悲劇の中に見られるメンタリティなのである。
この点に関しては、同監督による短編
「ちょっとの我慢」に於いて端的に描かれている。
『1月にした早くも2016年の映画ナンバー1決まり』という強い推しっぷりに
観にいきたくなった。
なんかタイトルが「ハウルの動く城」みたいだなあ、などと一旦想像したら
チケット窓口で「サウルの動く城」と言ってしまうのではないか不安に駆られてしまった。
無事チケットを買った後でも「サウルの城」と自分は言ってしまっていたんじゃないかと
軽く不安になったが、チケットを手にしているということは事なきを得たのだろう。
さて、映画だが町山智浩の解説を先に聞いていたおかげで
その特殊な演出に戸惑うことなく、映画全体の演出意図はすぐに理解できた。
主人公を長回しで追いかけるカメラは、時に背中を画面中央に捉えつつ
観客を主人公の体験と同化させ、主観映像のようにユダヤ人収容所の中を観客に見せる。
主人公がいるその場の周囲の風景にはピントが甘くなっており、
自然、観客は何が写っているんだろうと、目を凝らし、
起こっている出来事を目撃しようと促される。
多くの場合、裸の死体が写っており、
観客におぞましい事実に主体的に立ち会わせようという演出意図ど同時に、
裸体にボカす機能も副次的にではあるが果たしているとも言えるだろう。
映像の刺激の強さで、事の重大さを認識させるタイプとは正反対にある手法であり、
観客が事態を把握しようとする能動性を惹起しようとする演出である。
『見せられている』のではなく『見ようとする』姿勢を喚起するということは
逆に『見ようとしない』、あるいは『見まいとする』姿勢を導出する可能性もあるということでもある。
私の意識は、こちらに働いた。
決して、悲惨な現実から目を背けようとした訳ではないのだが、
広く知られた出来事でもあり、また人間による人間に対する愚かな行為という意味では
『無理に見るまでもない』と判断して、映画の作りそのものの意識を働かせて見た。
そうした人間の行為は映画でわざわざ見るまでもなく、おおよそ見当が付く、と言ったら
言い過ぎだろうか。
そう思ってしまったのは、別の理由もある。
小劇場系の映画館と言ってよいのだろうか、初めて行く映画館での上映だった今回の映画。
たとえば神保町にある岩波ホールなどは、小屋それ自体も気品がある上、
従業員やお客さんの挙措が上品で、普通の映画館とはさすが客層が違うと感じたもので、
今回もそういう映画館だと事前に勝手に思い込んでしまった自分のせいもあるのだが、
それこそ「普通」の映画館体験であった。
チケットカウンターの従業員も、客の座席選択にあまり親身な印象を与えない感じ。
客も、座っている私の前の隙間を通る時に、数人が会釈なく素通り。
他にも短時間にいろいろあったのだが、くどくなるので書かずにおくが
そんなこんなで、狭い空間で不愉快な思いをするという点では、
収容所で虐殺されたユダヤ人と負けず劣らず同じだとは言わないが、
映画の内容とともに、自分の置かれた環境もこみで、気分が悪くなったことは確かである。
おそらく、他人のマナーに文句をつけたくなって内心穏やかでなくなるくらいなら、
気にしないようにすることで、お互い平穏、というのが
人びとの振る舞いに見られる傾向だろう。
しかし、そうした無感覚状態に自分を置こうとすることもまた
過去の悲劇の中に見られるメンタリティなのである。
この点に関しては、同監督による短編
「ちょっとの我慢」に於いて端的に描かれている。
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