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特撮・アニメの作品レビューの同人誌を発行しています 大泉パラダイスのブログです。
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長年愛用しているラジオがあるのだが、

水に濡れた拍子に壊れても、しばらく乾かしてると直る、ということを繰り返している。

しかし、今日はもうさすがに直らないだろうというくらいイカレたのだが、

もしかしたらと思っていじっているうちに直った。

そして直った瞬間に聞こえてきたのが、

高見沢俊彦の声で「ウルトラマンオーブのメイン監督の田口清隆さんです」の声。


よくがんばったマイラジオ。
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「情報大陸」(TBS)の横山由依の特集の中で

横山が「フューチャー」と誤用しているところを

字幕では「フィーチャー」と正しく直してあった。


この二つの誤用については、ここ数年口をすっぱくして訴えている。


最近、ガラケーのことを「フィーチャーフォン」と書こうとしている人が

「フューチャーフォン」と書いてしまっている例を目にしたが、

やはり直接は注意できない。

ちなみに、この場合の「フィーチャー」は、機能の少なさを「少数の機能に特化している」

という意味で言い換えているものだ。

むしろ「古い」の言い換えであって、「未来」とは真逆の意味である。


その人が「未来」の意味で使っているのかどうか、ちょっと気になる。でも聞けない。
危険を予測して先回りにしてそれが起こらないようにすることは

結果的に「何も起こらない」ことを帰結することである。

現状に漠然とした不満を抱いている人が「なんでもいいから盛り上がることないかな」

などと思っている場合、

危機管理の結果の平穏を「つまらない」と感じる可能性が高いだろう。


イギリスの国民投票で、過半数を得た「離脱」に投票した人たちのどうやら多くが後悔しているらしい。

世界が慌てふためいているのを見たからだ。

みんなが一時の盛り上がりを求めた結果、取り返しのつかない結果を招来してしまう、

そんな事例を今のイギリスに見ておこう。

わたしたちのこの国でそういうことが起こらぬように。


参院選がスタートしている。

気持ちの表出ではなく、危機に対する身構えを一票にこめる人が私以外に多く登場することを願う。
報道STATIONサンデーを見ていると

イギリスの国民投票で「離脱」に投票はしたものの、後悔している、

今から投票をやり直せるのであれば、残留に入れ直したい、という意見もあるようで

たぶん、こういう人がいるだろうと思っていた。


おそらく移民流入による職業環境の不安定化などなんとかすべき問題を認識は広く共有されていながら

「なら、移民を排除せよ」という短絡的思考に絡めとられてしまっていたのだろう。

「問題はあるけど、移民排除はよくない」という態度はともすれば「じゃあどうすればいいんだ」という

感情的な反発を招きやすく、またそれに対して明確な答えは呈示しにくい。

究極的には、どういう人間を目指すべきかという人間観、

どういう世界を理想とするのかという世界観、に関わる問題、それこそ「理想論」だからであり、

感情論に負けやすい。これは、人間が根本的に抱えている「弱さ」であって、

この弱さが「移民を排除せよ」という強い主張に絡めとられやすい。


おそらく、離脱に一票投じたが、結果の大きさに驚いて後悔しているという人は

人間としての弱さに一旦は負けてしまったが、その弱さの自覚に至った人だろう。


人間は誰でも、少なくとも最初は未熟で、それでいてエネルギーがあるので

暴走をしやすい。


しかし、社会がセーフティネットとして機能する限りに於いては、

そうした暴走を、なんとか抱え込んでいられたのである。

イギリスの国民投票が実施される前は、結局は残留の票が過半数を越えるだろうという予測が多かったのは、

理性的な判断がセーフティネットとして機能することへの信頼があったからだろう。


しかし、結果は、感情的な表出を投票という公的な権利行使の場でも行ってしまう傾向に流れた。


後悔している人たちもまた、全体としては良識が働くことを心のどこかで期待していたのだろう。

おそらく責任を取る主体が、自分以外のところにあると思っている人達が

当人たちの見積もりを越えて多かった、ということだろう。

これは、子供が大人に(一般的にという意味で)期待する態度である。

母親に、と言っても良いだろう。

公道で暴走行為を働くメンタリティーは、別に国民全員が暴走することなど望んでいないはずなのだ。

自分の中から沸き上がる衝動を自分では抑えられないが、

自分の外の力で抑えてくれることを、抑えてもらった後にそう望んでいたと気付くことによって

自分を理解する、といったパターンだ。


要は「不満として表れてしまうこのエネルギーの奔流をうまく水路づけてくれ」ということなのだ。

これは、イギリスに限らず人間について普遍的な問題と言っていいだろう。


内向的だった少年アムロは、ガンダムを大地に立たせたことによって

大人への道を歩む、ガンダムのストーリーは端的に言ってそういう話だ。

しかしアムロが本来持っていたナイーブさが

周囲との軋轢となって現れ、ガンダムを(戦艦ホワイトベースを)降りてしまうこともあったが、

しかし戻ってきたアムロはその後、過剰適応と言ってもいいほどの活躍をガンダムで示すことになる。

シャアがそれを「君はニュータイプの能力を率直に示しすぎた」と表現した。

「すぎた」はこの場合、暴走という意味だ。

アムロはガンダムの能力をも越えていく。

「機動戦士ガンダム」は人間のポテンシャリティ=潜在能力、と、その解放がもたらす帰結の物語だ。

「ガンダムユニコーン」では、それを「可能性の獣」と表現した。


動物でありながら、感情の表出と理性の抑制に悩まされるのが人間本来のあり方なのである。

一人一人がこの葛藤から逃れて、動員されるようになってしまえば、

結論は個々人が望まぬ方に転がる。ナチスドイツの歴史はそういうものの反省をもたらすものとして意味がある。


映画「風の谷のナウシカ」のナウシカも、怒りに駆られて自分を止めることができないことを嘆き、

王蟲を暴走させようとする人間を憎み、身を持ってこれを制した。



ウルトラマンXも(話が飛ぶようだが)劇場版のラストでは「世界のバランスをとるため」戦うと言って地球を去っていった。

ウルトラマンはわれわれの世界にはいない。

バランスを取るべきは、一人一人の意識の中に、そしてその総意としての選挙結果や

世の中の状態として現れるしかないだろう。



結論を急ぐ。

次の参議院選の投票では、イギリスの国民投票を他山の石とするべきだ。

現状は、衆議院では与党が圧倒的過半数をカバーしているので

彼らの行き過ぎを適切にコントロールする意味で、参議院は野党が大勢を占めるのが

望ましいバランスと言えるだろう。

政策の中身を議論するための場に真っ当なバランス感覚が働くようにする意味で

ウルトラマンX風に言えば「ほかにやることがあるなら言ってみろ」というぐらい

シンプルな状況である。


参院選の不在者投票が始まったというニュースの中で

立会人の席に18歳(たぶん)の高校生が座っている光景を見た。

投票権のみならず、こういう役割までやらせるのね。

まあ見てるだけとは言え、管理する方もやらせるわけだ。


ものごとの順番を完全に間違っていると言ってよいだろう。

政治はおろか世の中のことすら(何歳になってもなかなか分からないと言えばそうだ)分からないだろう。

年端のいかない青少年をこういうところに駆り出すのは

プライオリティを完全に踏まえていないと言って然るべきだろう。

彼ら自身に聞いてみたら

「なぜ自分たちに新しい権利が付与されたのか。権利拡大が行われたのか」

実感を持って答えられる者など、そうそういまい。


この法律は、人間を

人間としての内実などは棚上げして

「一票」としか見ていない。

一票ならまだ一人の人間が一対一で対応するが、何千、何万の票、言ってしまえば

「ひと山いくら」の「量」とし扱っているのだろう。

「ボリューム」と言い換えてもいい。テレビの音量を上げ下げする時のスライダーのように

まとめて上げ下げして計量可能な「量」として扱っているのだ。

普通の言い方なら「マス」=大衆だ。


現時点ではやや大袈裟に聞こえるなら、それでも構わないが

人を人として扱わない、一定の格=人格を認められていないことを当事者たちが良しとしてしまうと、

つまりそう扱われることに疑問を抱かないとすると、

国の危急存亡の時には、それこそ人格を無視した扱いを免れないだろう。


「ラベル」や「レッテル貼り」という言葉が抽象概念として語られている間はまだマシだ。

手触りのある「紙」として「おまえは赤」「お前は白」

そんな物が各家庭の郵便受けに届くようになってからでは遅い。

今の流れに身を任せることの先にそうした可能性を折り込んで対処する必要があるだろう。

次の参議院選はそうした判断の機会であると考えてほいた方が良いだろう。









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