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特撮・アニメの作品レビューの同人誌を発行しています 大泉パラダイスのブログです。
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先日、3月6日(日)に行われたささきいさおのコンサート。

既に書いたが(それでも書き足りない)、別項を立てて総論めいたことを書いておく。


コンサートのフィナーレ(アンコールの直前)に歌われた

「君の青春は輝いているか」。

特撮番組「超人機メタルダー」の主題歌であるが、

作家ジェームス三木が作詞したこともあり、ささきにとって大事な持ち歌であるが、

先日のコンサートでは、二番の入りを間違えて歌い直すという局面があった。
(実は歌い直しでも軽く間違えている)

ちなみに、前年5月のコンサートでは間違えずに歌っている。

まあ、ささきいさおが歌詞なりテンポなりを間違えるのは、ファンとしては見慣れた光景である。


よく芸能評論などの文章で

「演じきった」「描ききった」「歌いきった」など「~きった」という表現が、

役者なり歌手なりを褒める言葉として使われるが、

実際にそういうことはまずない。

作品について、あるテーマをある作家が「描ききる」などと言った場合、

書き手が、何やら全体性についての知見を既に持っているかのような表現である。

作者なりを持ち上げようという善意に基づいてはいるのだろうが、

読み手として(少なくとも個人的には)真に受けない。

書き手が勝手に線を引いて、作者の能力を限定してしまうようで、ある意味失礼だ。


今回に関しても「全○曲を歌いきった」などの定型文による記事がどこかにあるのだと思うが

我々自身の目と耳で体験したものは、そんなものには収まらないのである。



こと、人間にまつわる事象について「ここで終わり」などということは

本人の死ぬか、人間そのものがいなくなるか、この世界がなくなる以外には無いはずだ。


たとえばささきいさおが重要な持ち歌を間違えることについて

「プロ歌手としてどーのこーの」などと言うとすれば、

それこそ「プロ」なるものの定義を勝手に設定して物事を限定的に見る人の物言いだろう。


所詮そんなものは肩書き、あるいは名乗るか名乗らないかの話であって、

私も彼も同じ人間であり、人間であることに於いて同じである。


ささきいさおの存在価値は、

宇宙戦艦ヤマトに始まるアニメブームにおいて中心人物として立ち現れ、

一人の人間、時には親として、発言をし、それを我々聞き見続けてきたファンがおり、

今なおその人生を生きて、我々も生きて、共に場を共有できることにある。


さまざまな歴史を背負い、そして強い個性を持った一人の人間としてのささきいさおの前では

歌の入りを間違えることなど、些細なことに過ぎない。

私個人としては、その瞬間、身を乗り出さんばかりにしてあたふたし

タイミングを伝えるように腕を伸ばしている自分の挙措が自然に出てくるばかりであり、

無事、リズムに乗ったところで安心に歌い終われば、

安心して大いに拍手をするばかりである。


ささきいさおという現実存在=実存の前では

「アニメソングの大王」という肩書きすら、陳腐だろう。


彼の存在、言動、一挙手一投足それ自体が貴重なのである。


その貴重さに、私は心打たれてきたのであり、コンサートは度にそのことを

再確認できるのである。



今回のトークの中で

息子さんの歯医者さんの受付の女の子が「行きます行きます♥」と言ってくれると嬉しい、と

語った後に、歌を間違えて恥をかいてしまうわけだから、

そのことの痛みは観客よりもご本人の方が痛切なのは言うまでもないだろう。


ミスった歌の後の言い訳も、何パターンがあり、

それぞれ名前をつけてもいいくらいパターン化しているのも、ファンの楽しみである。


それを時折ささき自身が「あたたかい拍手」「甘やかしてくれるファンの皆様」など

自嘲気味に表現してくれるが

彼が生きてきた歴史の重みと、それに立ち会えている喜びに比べたら

それこそ些末というか、自然な反応としか言いようがないのである。

それこそささきのタレント性・人間性に私自身が、励ましを得るのである。


おそらく氷川きよしを追いかけるおばちゃん達も似たような所があるのだと思う。

きよしの一挙手一投足から目が離せないように、

いさおも一瞬たりとも目が離せない。



しかしヤマトがもたらした陰と陽の両面は数十年のスパンにわたって今も続いている。


ちなみにヤマトについては

「『さらば』で終わっていれば名作として名を残せたのに」といった意見を聞くことがあるが

くだらない言説だと思っている。

人気が凋落したのは確かだが、

世間一般に浸透した「人気」なるもの、「空気」みたいなものとは

異質な存在感=オーラを放っていることが、ヤマトの存在価値である。
(以前のブログでヴァルター・ベンヤミンの『アウラ』になぞらえて書いた)


そんな中にささきも、今回壇上に上がった松本零士も宮川彬良もいる。

この三人のトークもスリリングであったが、

それはまた別項を立てることとしよう。




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