特撮・アニメの作品レビューの同人誌を発行しています
大泉パラダイスのブログです。
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2月19日(金)放送
薬物に手を染めてしまうきかっけとして「さびしさ」がある、との吉田豪のコメント。
薬物に手を染めてしまうきかっけとして「さびしさ」がある、との吉田豪のコメント。
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オープニングで「戦隊」を「群れ」と言い換えていたのはとても面白い。
前近代的でありながら、現代的な意味も感じられるという意味で。
この番組を通して、中沢新一やレヴィ=ストロースの
野生に関する本に触れる人が増えることはほぼ間違いないと思われる。
ちなみに、ジュウオウライオン、レオの髪型がソバージュ(sauvage)だが
これはフランス語で野生を意味する。
セラが東京ドームシティの噴水で泳いでいたが
戦隊やライダー恒例の、新人俳優を水に落とすシーンで
後楽園ゆうえんちの水に落としたのは史上初ではなかろうか。
戦隊やライダーには劇場用作品にお笑いタレントがゲスト出現することが多いが
ジュウオウジャーは、「ダンソン♪」と言いながら獣を捕まえて「ニーブラ」という
あの二人(名前出てこないが)しかないであろう。
人々を羽交い締めにして「ニーブラ」と叫びながらハンティングする
敵「ニーブラジャー」が出現。
クライマックスはジュウオウジャーVSニーブラジャーという展開はいかがか。
ジューマンの人たちが貨幣経済を知っていたり、
お風呂、という概念(水浴びではなくお風呂)を知っていたという描写は
もうちょっと面白くできたシーンではないだろうか。
前近代的でありながら、現代的な意味も感じられるという意味で。
この番組を通して、中沢新一やレヴィ=ストロースの
野生に関する本に触れる人が増えることはほぼ間違いないと思われる。
ちなみに、ジュウオウライオン、レオの髪型がソバージュ(sauvage)だが
これはフランス語で野生を意味する。
セラが東京ドームシティの噴水で泳いでいたが
戦隊やライダー恒例の、新人俳優を水に落とすシーンで
後楽園ゆうえんちの水に落としたのは史上初ではなかろうか。
戦隊やライダーには劇場用作品にお笑いタレントがゲスト出現することが多いが
ジュウオウジャーは、「ダンソン♪」と言いながら獣を捕まえて「ニーブラ」という
あの二人(名前出てこないが)しかないであろう。
人々を羽交い締めにして「ニーブラ」と叫びながらハンティングする
敵「ニーブラジャー」が出現。
クライマックスはジュウオウジャーVSニーブラジャーという展開はいかがか。
ジューマンの人たちが貨幣経済を知っていたり、
お風呂、という概念(水浴びではなくお風呂)を知っていたという描写は
もうちょっと面白くできたシーンではないだろうか。
スケバン刑事Ⅱの映像と共にコンサートスタート
主題歌メドレー
終わって、舞台に置かれていた鉄仮面をステージの端から端までお客さんに披露。
「これ(スケバン刑事)で私を知って下さった方も多いと思います」とのトークに続いて
デビュー曲に遡り、
物販の紹介などを挟んで。
ラストははいからさんが通るなどのヒット曲。
アンコールは、自身の作詞曲など。
スケバン刑事を冒頭の掴みで使いつつも
あくまでもメインではないのだなあと、まあ当然ながら本人も客も確認する構成と言える。
印象的なのはラストのロンリーナイト(だったかな)
ざっくり詞の内容をまとめると
泣いた夜もあった、それでも自分の人生を生きていく(ほんとざっくりです)
この30年の南野陽子の偽らざる内面の吐露なのだと思う。
このコンサートも「歌手 南野陽子」として人前に立つまでに25年ほど経過しているという。
女優の道としても曲折のあった30年。
「歌手」「アイドル」「女優」などと肩書きではない
一人の人間「南野陽子」としての生きざま、大袈裟に言えば『実存』が垣間見えるコンサートだった。
ロビーには当時のポスターやグッズなどが展示。
映画「スケバン刑事」で坂上忍と共演していたが
山田太一のドラマでも共演していたというのは完全に忘れていた。
坂上司会の番組でぜひその辺の話などをしていただきたい。
主題歌メドレー
終わって、舞台に置かれていた鉄仮面をステージの端から端までお客さんに披露。
「これ(スケバン刑事)で私を知って下さった方も多いと思います」とのトークに続いて
デビュー曲に遡り、
物販の紹介などを挟んで。
ラストははいからさんが通るなどのヒット曲。
アンコールは、自身の作詞曲など。
スケバン刑事を冒頭の掴みで使いつつも
あくまでもメインではないのだなあと、まあ当然ながら本人も客も確認する構成と言える。
印象的なのはラストのロンリーナイト(だったかな)
ざっくり詞の内容をまとめると
泣いた夜もあった、それでも自分の人生を生きていく(ほんとざっくりです)
この30年の南野陽子の偽らざる内面の吐露なのだと思う。
このコンサートも「歌手 南野陽子」として人前に立つまでに25年ほど経過しているという。
女優の道としても曲折のあった30年。
「歌手」「アイドル」「女優」などと肩書きではない
一人の人間「南野陽子」としての生きざま、大袈裟に言えば『実存』が垣間見えるコンサートだった。
ロビーには当時のポスターやグッズなどが展示。
映画「スケバン刑事」で坂上忍と共演していたが
山田太一のドラマでも共演していたというのは完全に忘れていた。
坂上司会の番組でぜひその辺の話などをしていただきたい。
テレビをつけた瞬間に画面に映ったカットが
徳川機関長の後頭部なめという、映画からの流用の画だったので
一瞬、「さらば」か?と思ったが、ヤマト2だった、という日曜の朝。
徳川機関長の後頭部なめという、映画からの流用の画だったので
一瞬、「さらば」か?と思ったが、ヤマト2だった、という日曜の朝。
土曜の朝
BSは実は普段あまり見ないのだが
なんの気なしにつけていたらヤマトがやっていてしかも最終回なので
観てしまった。
もちろん既に何度観たか分からないものであるが、
やっている以上はその場を離れる訳にはいかない、といった代物なのである自分にとって。
濃い作品というのは見る度に発見がある、というか
既に知っていることでも発見した時のような感慨が自分の中に埋め込まれていて
それが呼び起こされるのだろう。
金田伊功や友永和秀の作画、
芦田豊雄の作画に白土武が手を入れてあったり、なかったり。
そんな辺り、実にスリリングだったり。
近年、この第一作宇宙戦艦ヤマトのリメイクが作られて、完結したが
かつてのような広い支持は得られぬまま終わったと総括せざるを得ない。
ヤマトを参考にしつつ「ヤマトをつぶせ!」の情念で作られたガンダムが
いまだに強く支持され、文化として定着した感のある昨今、
ヤマトは巻き返しを図ることはできなかった(まだこれから先の展開は分からないとは言え)。
しかし、かつてのヤマトが今なお独特の輝きを放ち続けていると思うのは、
その「一回性」にあるのだと思う。
ヴァルター・ベンヤミンが言った「アウラ」(今で言うオーラ)。
完全なオリジナルとして、その存在の一回性故に存在感を持ち続けるものであるという。
それをヤマトの第一作は間違いなく持っている。
ガンダムのように長く愛される作品の方がいいに決まっている、
誰もがそう言うだろう、わしもそう思うよ。
だが、なあ古代、ヤマトの命を生かすも殺すもお前次第なんだ。
お前はまだ生きている、生きているじゃないか。
命ある限り戦え。
そうだ、ヤマトはまだ生きている。
と、「さらば」の沖田艦長のセリフをまぜこんでみたが
ヤマトは正に、あのブームを巻きおこした、その「一回性」の中に
生命を宿し続ける存在なのではないだろうか。
そのことを知っている者たちがまだ生き続けている限り、
ヤマトも死ぬことはない。
ガンダム(でなくてもウルトラでもライダーでもなんでもいいのだが)とはまったく違う
独特の存在である続けることに、ヤマトの生きる道、「ヤマト道」とでも言えるものが
あるのではないだろうか。
BSは実は普段あまり見ないのだが
なんの気なしにつけていたらヤマトがやっていてしかも最終回なので
観てしまった。
もちろん既に何度観たか分からないものであるが、
やっている以上はその場を離れる訳にはいかない、といった代物なのである自分にとって。
濃い作品というのは見る度に発見がある、というか
既に知っていることでも発見した時のような感慨が自分の中に埋め込まれていて
それが呼び起こされるのだろう。
金田伊功や友永和秀の作画、
芦田豊雄の作画に白土武が手を入れてあったり、なかったり。
そんな辺り、実にスリリングだったり。
近年、この第一作宇宙戦艦ヤマトのリメイクが作られて、完結したが
かつてのような広い支持は得られぬまま終わったと総括せざるを得ない。
ヤマトを参考にしつつ「ヤマトをつぶせ!」の情念で作られたガンダムが
いまだに強く支持され、文化として定着した感のある昨今、
ヤマトは巻き返しを図ることはできなかった(まだこれから先の展開は分からないとは言え)。
しかし、かつてのヤマトが今なお独特の輝きを放ち続けていると思うのは、
その「一回性」にあるのだと思う。
ヴァルター・ベンヤミンが言った「アウラ」(今で言うオーラ)。
完全なオリジナルとして、その存在の一回性故に存在感を持ち続けるものであるという。
それをヤマトの第一作は間違いなく持っている。
ガンダムのように長く愛される作品の方がいいに決まっている、
誰もがそう言うだろう、わしもそう思うよ。
だが、なあ古代、ヤマトの命を生かすも殺すもお前次第なんだ。
お前はまだ生きている、生きているじゃないか。
命ある限り戦え。
そうだ、ヤマトはまだ生きている。
と、「さらば」の沖田艦長のセリフをまぜこんでみたが
ヤマトは正に、あのブームを巻きおこした、その「一回性」の中に
生命を宿し続ける存在なのではないだろうか。
そのことを知っている者たちがまだ生き続けている限り、
ヤマトも死ぬことはない。
ガンダム(でなくてもウルトラでもライダーでもなんでもいいのだが)とはまったく違う
独特の存在である続けることに、ヤマトの生きる道、「ヤマト道」とでも言えるものが
あるのではないだろうか。