特撮・アニメの作品レビューの同人誌を発行しています
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劇場版ウルトラマンXの完成披露試写会が行われた3月3日。
つづけて、「大決戦! 超ウルトラ8兄弟」と「長編怪獣映画ウルトラマン」の上映も
(同映画館内の別シアター、別料金でだが)行われた。
「超8」の方は割と早めにチケットが売り切れたため、
迷ってるうちに逃してしまったが
「ウルトラマン」の方が、開場時にもチケットが残っていたため
駆け込みで鑑賞することに。
テレビシリーズ「ウルトラマン」の再編集であり、
もう何度観たかわからないくらいであるから、お金を払ってまで観る必要は特に感じなかったのだが、
HDリマスターというところに引かれて、大画面で画質を楽しむのもよかんべえくらいの感じで
鑑賞。
画質の方は、正直目を見張るほどのものはなかったが、
やはり内容的には、改めて観て感じるところが多かったので、
このタイミングで観ておいてよかった。
特に、ハヤタの主人公像には思うところがある。
ハヤタは事件の調査中に、宇宙から飛来した赤い玉と衝突してしまう。
その安否を気にかけるムラマツキャップ(科学特捜隊の隊長)は
「ハヤタのような立派な男を、神様が見捨てるはずがない」と語る。
そう、主人公ハヤタは、ウルトラマンと出会う前からそもそもが「立派な男」として
設定され、描かれている。
そして、赤い玉の中にいるウルトラマンと出会うわけだが、
赤い玉の衝突は、すなわち「事故」であって、
例えば「仮面ライダー」の主人公本郷猛の場合のように優れた人間であるが故に
選ばれた、という事情ではない。
赤い玉の中でウルトラマンと出会うまで描写も面白い。
赤い玉の中に誰かがいることに気付いたハヤタは「そこにいるのは誰だ」と語りかける。
ウルトラマンとハヤタとの会話はハヤタの方から語りかける形で始まっているのだ。
なにやらウルトラマンがこそっと物陰に隠れていて、
事故を起こしてしまった自分の身をかくそうとでもしていたかのような印象もないではない。
明らかに、ハヤタの「立派さ」がそこはかとなく描かれていて、
ともすれば、それはウルトラマンをも上回っているのである。
ハヤタに自分の命を与えると言うウルトラマンは、そのための装置ベーターカプセルを
ハヤタに渡すのだが、
事情をつかみかねているハヤタは「それを使うとどうなるのだ」といったように尋ねると、
すかさず「ふふふふふ」と含み笑いで返すウルトラマンは、お茶目さすら漂わせる。
ハヤタの「立派さ」を際立たせようとするためか、
イデ隊員は「シェー!」と言って驚いたりするし、
アラシ隊員は猪突猛進型である。
キャップは、もちろん科特隊を率いる頼りがいのあるリーダーなのだが、
後々、隊員服を後ろ前に着てしまう場面もある。
ハヤタも後々、ベーターカプセルとスプーンを間違えるようなシーンもあるが、
それ以前に、ベーターカプセルをよく落とすし、本気で忘れてきたりもするなど、
それらは作劇上は主にウルトラマンの登場前のサスペンスとしていつもの
パターン化しがちな設定への変化を与えるものとして描かれるのだが、
考えようによっては、ハヤタの「立派さ」に添えられた人間味とも取れるだろう。
このブログで、特撮の主人公、特に戦隊のリーダー像から「立派さ」が消えて久しいと書いたが、
「立派な主人公」が描かれたことと、描かれなくなってきたことは、
作品の外の事情を映してもいるのだろう。
最近「ガールズ&パンツァー」を見たが、
なぜ、女の子だけの世界観で、燃えるような友情や連帯が描かれるのか、
といったこととも関係があると思われるが、それはまた別の項目を立てて書こう。
つづけて、「大決戦! 超ウルトラ8兄弟」と「長編怪獣映画ウルトラマン」の上映も
(同映画館内の別シアター、別料金でだが)行われた。
「超8」の方は割と早めにチケットが売り切れたため、
迷ってるうちに逃してしまったが
「ウルトラマン」の方が、開場時にもチケットが残っていたため
駆け込みで鑑賞することに。
テレビシリーズ「ウルトラマン」の再編集であり、
もう何度観たかわからないくらいであるから、お金を払ってまで観る必要は特に感じなかったのだが、
HDリマスターというところに引かれて、大画面で画質を楽しむのもよかんべえくらいの感じで
鑑賞。
画質の方は、正直目を見張るほどのものはなかったが、
やはり内容的には、改めて観て感じるところが多かったので、
このタイミングで観ておいてよかった。
特に、ハヤタの主人公像には思うところがある。
ハヤタは事件の調査中に、宇宙から飛来した赤い玉と衝突してしまう。
その安否を気にかけるムラマツキャップ(科学特捜隊の隊長)は
「ハヤタのような立派な男を、神様が見捨てるはずがない」と語る。
そう、主人公ハヤタは、ウルトラマンと出会う前からそもそもが「立派な男」として
設定され、描かれている。
そして、赤い玉の中にいるウルトラマンと出会うわけだが、
赤い玉の衝突は、すなわち「事故」であって、
例えば「仮面ライダー」の主人公本郷猛の場合のように優れた人間であるが故に
選ばれた、という事情ではない。
赤い玉の中でウルトラマンと出会うまで描写も面白い。
赤い玉の中に誰かがいることに気付いたハヤタは「そこにいるのは誰だ」と語りかける。
ウルトラマンとハヤタとの会話はハヤタの方から語りかける形で始まっているのだ。
なにやらウルトラマンがこそっと物陰に隠れていて、
事故を起こしてしまった自分の身をかくそうとでもしていたかのような印象もないではない。
明らかに、ハヤタの「立派さ」がそこはかとなく描かれていて、
ともすれば、それはウルトラマンをも上回っているのである。
ハヤタに自分の命を与えると言うウルトラマンは、そのための装置ベーターカプセルを
ハヤタに渡すのだが、
事情をつかみかねているハヤタは「それを使うとどうなるのだ」といったように尋ねると、
すかさず「ふふふふふ」と含み笑いで返すウルトラマンは、お茶目さすら漂わせる。
ハヤタの「立派さ」を際立たせようとするためか、
イデ隊員は「シェー!」と言って驚いたりするし、
アラシ隊員は猪突猛進型である。
キャップは、もちろん科特隊を率いる頼りがいのあるリーダーなのだが、
後々、隊員服を後ろ前に着てしまう場面もある。
ハヤタも後々、ベーターカプセルとスプーンを間違えるようなシーンもあるが、
それ以前に、ベーターカプセルをよく落とすし、本気で忘れてきたりもするなど、
それらは作劇上は主にウルトラマンの登場前のサスペンスとしていつもの
パターン化しがちな設定への変化を与えるものとして描かれるのだが、
考えようによっては、ハヤタの「立派さ」に添えられた人間味とも取れるだろう。
このブログで、特撮の主人公、特に戦隊のリーダー像から「立派さ」が消えて久しいと書いたが、
「立派な主人公」が描かれたことと、描かれなくなってきたことは、
作品の外の事情を映してもいるのだろう。
最近「ガールズ&パンツァー」を見たが、
なぜ、女の子だけの世界観で、燃えるような友情や連帯が描かれるのか、
といったこととも関係があると思われるが、それはまた別の項目を立てて書こう。
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アニミズムという言葉には既に人口に膾炙しているが
ジュウオウジャーによって、「トーテミズム」という言葉が
広まっていくのではないだろうか。
(トーテムという舞台も催されていることもある)
アニミズムは、あらゆるものに神が宿っているという考え。
トーテミズムは、動物が人間の祖先と考えること。
大昔の人は、自分たちと動物を同じ系譜に属するものと捉えていたようで、
それを「トーテムポール」として形に表している。
進化論が唱えられるより遥か前に、彼らは真実を知っていたのだ。
かつては「未開」と言われていた彼らのあり方が、
レヴィ=ストロースによって、それは今のわれわれより劣った考えなのではないとされ、
以後、「未開」ではなく「野生」と言い換えられるようになったようだ。
キリスト教的な世界観=神様が人間を作った、からすると
人間の祖先が動物であるはずはなく、自然は人間が支配するべきものとされるが
進化論が教えるところ、また野生の思考によれば、鳥類もまた人間の祖先であり、
われわれは羽を失って地上で暮らしているのである。
ここからは私の勝手な想像であるが、
キリスト教における『天使』の存在は、
空を飛べなくなった人間の、飛ぶことへの憧れが生んだ存在、
空を飛ぶ能力が神への橋渡しをするものとしてイメージされたものなのではなかろうか。
アニメ「アルプスの少女ハイジ」には、
山のいただきに住む大鷲(おおわし)が、
人間を見下ろす孤高の存在に喩えられているのを思い出す。
「動物戦隊ジュウオウジャー」では、他の四人がライオンや虎など
地上(または海)にしばりつけられたキャラクターであるのに対し、
主人公は、重力から自由になれる鳥である。
四人が彼をうらやましがるシーンがあるが、
歴史的な背景を考えると、人類の進化の中で失ってきたものへの憧れが投影されていると
見ることもできるのではないだろうか。
ジュウオウジャーによって、「トーテミズム」という言葉が
広まっていくのではないだろうか。
(トーテムという舞台も催されていることもある)
アニミズムは、あらゆるものに神が宿っているという考え。
トーテミズムは、動物が人間の祖先と考えること。
大昔の人は、自分たちと動物を同じ系譜に属するものと捉えていたようで、
それを「トーテムポール」として形に表している。
進化論が唱えられるより遥か前に、彼らは真実を知っていたのだ。
かつては「未開」と言われていた彼らのあり方が、
レヴィ=ストロースによって、それは今のわれわれより劣った考えなのではないとされ、
以後、「未開」ではなく「野生」と言い換えられるようになったようだ。
キリスト教的な世界観=神様が人間を作った、からすると
人間の祖先が動物であるはずはなく、自然は人間が支配するべきものとされるが
進化論が教えるところ、また野生の思考によれば、鳥類もまた人間の祖先であり、
われわれは羽を失って地上で暮らしているのである。
ここからは私の勝手な想像であるが、
キリスト教における『天使』の存在は、
空を飛べなくなった人間の、飛ぶことへの憧れが生んだ存在、
空を飛ぶ能力が神への橋渡しをするものとしてイメージされたものなのではなかろうか。
アニメ「アルプスの少女ハイジ」には、
山のいただきに住む大鷲(おおわし)が、
人間を見下ろす孤高の存在に喩えられているのを思い出す。
「動物戦隊ジュウオウジャー」では、他の四人がライオンや虎など
地上(または海)にしばりつけられたキャラクターであるのに対し、
主人公は、重力から自由になれる鳥である。
四人が彼をうらやましがるシーンがあるが、
歴史的な背景を考えると、人類の進化の中で失ってきたものへの憧れが投影されていると
見ることもできるのではないだろうか。
朝一で、「ニンニンジャーVSトッキュウジャー」を観て
(ライダー1号の予告を期待して行ったのだがやらなかった)
仮面ライダー1号の前売りを買いつつ、予告を見て、
ウルトラマンXの試写会を見て、
見事に戦隊→ライダー→ウルトラのはしごをした一日であった。
あ、ゴジラの特報も見たな。
(ライダー1号の予告を期待して行ったのだがやらなかった)
仮面ライダー1号の前売りを買いつつ、予告を見て、
ウルトラマンXの試写会を見て、
見事に戦隊→ライダー→ウルトラのはしごをした一日であった。
あ、ゴジラの特報も見たな。
2月28日にガルパンを観に新宿バルト9に行った時に初めて見た
新宿バルト9用の予告。
冒頭にタケルと仮面ライダー1号が出てきて「新宿バルト9にお越しの皆様」と始める。
また、最後に藤岡弘、が単独で出てきて語りかける(ここはバルト9専用ではないのかも知れない)。
藤岡弘、にカメラ目線で「命のメッセージ」と言われてしまっては
もうこちらも命懸けで観に行かない訳にはいかない。
まあ、実際に命はかけないが、お金はかけて前売り券は6枚ほど買ってある。
まだ少ないか。
予告で「本郷猛、最後の変身」と言っているが、
これを宣伝のためのハッタリと言ってしまうことが出来ないのは、
特撮ものの特性だろう。
例えば宇宙戦艦ヤマトが「これで最後」と言いながら続編が作られるのとは話が違う。
これからも「仮面ライダー1号」というキャラクターは登場し続けるだろうが、
藤岡弘、演じる本郷猛が、年齢的に考えて、しかも「主演」という形では
今後そうそう出てくるはずがない、という事実認識が
「本郷猛、最後の変身」という言葉に重みを与えているのである。
僕らにとっても一生のうちで最後の経験になるかも知れない。
そんな予感の中で、せっせといろんな映画館で前売り券を買っているが、
ユナイテッドシネマとしまえんでは、特典が終了していたので買いませんでした。
すまん猛。
そういえば、予告の中で女の子が「猛ー!」と叫んでいるが
「本郷さーん」とは呼ばないキャラなのだろうか。
若く見えるけど、本郷猛と同じ年齢の人物なのか。
全体として泣ける予告なのだが、あそこだけひっかかっている。
新宿バルト9用の予告。
冒頭にタケルと仮面ライダー1号が出てきて「新宿バルト9にお越しの皆様」と始める。
また、最後に藤岡弘、が単独で出てきて語りかける(ここはバルト9専用ではないのかも知れない)。
藤岡弘、にカメラ目線で「命のメッセージ」と言われてしまっては
もうこちらも命懸けで観に行かない訳にはいかない。
まあ、実際に命はかけないが、お金はかけて前売り券は6枚ほど買ってある。
まだ少ないか。
予告で「本郷猛、最後の変身」と言っているが、
これを宣伝のためのハッタリと言ってしまうことが出来ないのは、
特撮ものの特性だろう。
例えば宇宙戦艦ヤマトが「これで最後」と言いながら続編が作られるのとは話が違う。
これからも「仮面ライダー1号」というキャラクターは登場し続けるだろうが、
藤岡弘、演じる本郷猛が、年齢的に考えて、しかも「主演」という形では
今後そうそう出てくるはずがない、という事実認識が
「本郷猛、最後の変身」という言葉に重みを与えているのである。
僕らにとっても一生のうちで最後の経験になるかも知れない。
そんな予感の中で、せっせといろんな映画館で前売り券を買っているが、
ユナイテッドシネマとしまえんでは、特典が終了していたので買いませんでした。
すまん猛。
そういえば、予告の中で女の子が「猛ー!」と叫んでいるが
「本郷さーん」とは呼ばないキャラなのだろうか。
若く見えるけど、本郷猛と同じ年齢の人物なのか。
全体として泣ける予告なのだが、あそこだけひっかかっている。
劇場版ウルトラマンXを観てきた。
特撮シーンのミニチュアの看板の中にいくつか面白いものがあった。
「LABI」ならぬ「XABI」(ザビと読むのか?)
「怪獣居酒屋タグチ」
そして
「洋服の青山」
これだけ実在のお店であるが、
以前、田口清隆がスーツをあつらえた時に大変よくしてもらったという話を
ツイッターが何かでしており、その思い出がこめられているのだろう、と思うと
微笑ましくも、軽くプフッとしてしまった。
映画全体としては、田口清隆の優しい人柄が前面に出ており、
それぞれの役者さんを綺麗に、美しく、かっこよく撮る姿勢が明らかである。
田口清隆がテレビシリーズなどで見せる才気溢れる撮り方はやや影を潜めてはいるが、
ウルトラマンの劇場版は、今回に限らずそういうところがあるし、
パンフレットのインタビューでも、その辺自覚的であるようだ。
ウルトラマンの映画は、個人の才能を発揮する場ではなく、
映画を任される、ということ自体がクリエイターとしての才能や信頼の証しであり、
田口清隆ほどの才能を持ってしても、
ファミリーで無難に楽しめるといった感じのブランドイメージを壊さない
ということに注力されるのだということを
今回の映画は証明したのではないだろうか。
映画の冒頭に、テレビシリーズのあらすじ紹介があるなど
奇をてらったところのない正攻法な作りである。
――以下、ネタバレ含むのでご注意を――
予告を観て興味を引いたのが、吉本多香美というキャスティング。
初代ウルトラマンと、ティガを結ぶ存在としてはこの人以外あり得ない、
映画の中でその辺、どのような設定で登場するのかが楽しみだったが
やや期待し過ぎだったようで、レナ隊員でもなく、初代マンとの繋がりも特にない。
また初代ウルトラマンがどのように登場するのかにも大変興味がそそられたが、
映画の冒頭で、グルマン博士が「ウルトラマンを召喚する装置を発明した」とかなんとか
早々に言及してしまい
この辺も拍子抜けではあった。
上映前のイベントには黒部進が登壇したが、
映画には登場しない。
予想はついたが(というかチラシやポスターで出演者を見れば一目瞭然だったのだろうが
映画の鑑賞前には基本的に見ないようにしている)
今後、オリジナルの俳優が出られなくなる可能性も考慮すれば
遅かれ早かれ、キャラクターだけの登場にならざるを得ないのは目に見えている。
長野博が出演する可能性の低いティガは、映画ティガ&ダイナの時点で既にそうだった。
今回、マックスやネクサスなどのウルトラマンたちもカードによって召喚された。
外見は確かにそのキャラクターではあるが、本物かどうかよく分からない、
といったヒーローの登場のさせ方は「仮面ライダーディケイド」が元祖であるが、
ウルトラも本格的にその段階に入ったのだろう。
(オリジナルの俳優が出ていても、別次元の存在だったという超ウルトラ8兄弟の例もある)
観客の側も、世代を重ねれば、
もう本物かどうか、などということは問題にしなくなっていくはずで
物事の発展段階が一定程度まで行き着けば、
シミュラークル(本物かコピーか区別がつかないもの)が横行するのは、世の理なのだろう。
映画の中で、初代ウルトラマンを神話の中の存在として扱っていたが、
作品の外の話になるが、番組をリアルタイムで体験した世代もいなくなり、
演じた俳優もいなくなれば、それこそ神格化された存在にウルトラマンはなっていくか、
あるいは、誰もが自由に呼び出したり設定を変えたりして利用する存在になるのかも知れない。
映像面で一番印象に残ったもの一つが、
初代ウルトラマンとティガが空中でクロス(X)に交差するビジュアル。
「帰ってきたウルトラマン」で、初代ウルトラマンとウルトラセブンが
新マンを助けるために行った「ウルトラの星作戦」の再現に他ならない。
特撮シーンのミニチュアの看板の中にいくつか面白いものがあった。
「LABI」ならぬ「XABI」(ザビと読むのか?)
「怪獣居酒屋タグチ」
そして
「洋服の青山」
これだけ実在のお店であるが、
以前、田口清隆がスーツをあつらえた時に大変よくしてもらったという話を
ツイッターが何かでしており、その思い出がこめられているのだろう、と思うと
微笑ましくも、軽くプフッとしてしまった。
映画全体としては、田口清隆の優しい人柄が前面に出ており、
それぞれの役者さんを綺麗に、美しく、かっこよく撮る姿勢が明らかである。
田口清隆がテレビシリーズなどで見せる才気溢れる撮り方はやや影を潜めてはいるが、
ウルトラマンの劇場版は、今回に限らずそういうところがあるし、
パンフレットのインタビューでも、その辺自覚的であるようだ。
ウルトラマンの映画は、個人の才能を発揮する場ではなく、
映画を任される、ということ自体がクリエイターとしての才能や信頼の証しであり、
田口清隆ほどの才能を持ってしても、
ファミリーで無難に楽しめるといった感じのブランドイメージを壊さない
ということに注力されるのだということを
今回の映画は証明したのではないだろうか。
映画の冒頭に、テレビシリーズのあらすじ紹介があるなど
奇をてらったところのない正攻法な作りである。
――以下、ネタバレ含むのでご注意を――
予告を観て興味を引いたのが、吉本多香美というキャスティング。
初代ウルトラマンと、ティガを結ぶ存在としてはこの人以外あり得ない、
映画の中でその辺、どのような設定で登場するのかが楽しみだったが
やや期待し過ぎだったようで、レナ隊員でもなく、初代マンとの繋がりも特にない。
また初代ウルトラマンがどのように登場するのかにも大変興味がそそられたが、
映画の冒頭で、グルマン博士が「ウルトラマンを召喚する装置を発明した」とかなんとか
早々に言及してしまい
この辺も拍子抜けではあった。
上映前のイベントには黒部進が登壇したが、
映画には登場しない。
予想はついたが(というかチラシやポスターで出演者を見れば一目瞭然だったのだろうが
映画の鑑賞前には基本的に見ないようにしている)
今後、オリジナルの俳優が出られなくなる可能性も考慮すれば
遅かれ早かれ、キャラクターだけの登場にならざるを得ないのは目に見えている。
長野博が出演する可能性の低いティガは、映画ティガ&ダイナの時点で既にそうだった。
今回、マックスやネクサスなどのウルトラマンたちもカードによって召喚された。
外見は確かにそのキャラクターではあるが、本物かどうかよく分からない、
といったヒーローの登場のさせ方は「仮面ライダーディケイド」が元祖であるが、
ウルトラも本格的にその段階に入ったのだろう。
(オリジナルの俳優が出ていても、別次元の存在だったという超ウルトラ8兄弟の例もある)
観客の側も、世代を重ねれば、
もう本物かどうか、などということは問題にしなくなっていくはずで
物事の発展段階が一定程度まで行き着けば、
シミュラークル(本物かコピーか区別がつかないもの)が横行するのは、世の理なのだろう。
映画の中で、初代ウルトラマンを神話の中の存在として扱っていたが、
作品の外の話になるが、番組をリアルタイムで体験した世代もいなくなり、
演じた俳優もいなくなれば、それこそ神格化された存在にウルトラマンはなっていくか、
あるいは、誰もが自由に呼び出したり設定を変えたりして利用する存在になるのかも知れない。
映像面で一番印象に残ったもの一つが、
初代ウルトラマンとティガが空中でクロス(X)に交差するビジュアル。
「帰ってきたウルトラマン」で、初代ウルトラマンとウルトラセブンが
新マンを助けるために行った「ウルトラの星作戦」の再現に他ならない。