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特撮・アニメの作品レビューの同人誌を発行しています 大泉パラダイスのブログです。
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映画翻訳者の戸田奈津子の数々の“逸話”が話題になることがあり、

その中で印象的なネタ(というか異臭いやイシュー)の一つに、

「passion play」(パッションプレイ)を

「情熱的なプレイ」と訳したという話がある。

ここでの「passion」は、キリストの「受難」の意味であり

「passion play」は「受難劇」(受難を題材にしたお芝居)と訳さなければならない。


「Passion」という、そのものズバリ、キリストの受難を描いた映画もあって

前から疑問だったのだが、

「passion」という単語が、「情熱」と「受難」の二つの意味をなぜ持っていて

どう結び付いているのか。


ご存知の方にはどうという話でもないのだろうが

遅まきながら気が付いた。

「passive」=受動性という点においてなのだ。(active=能動性の反対語である)

この意味で「受難」の方は理解しやすいだろう。


問題となるのは「情熱」あるいは「情念」がなぜ「受動性・受動的」なのかだ。


「受け身」という言い方とは正反対に見える「情熱・情念」であるが、

「コントロールできない」「支配下におくことができない」という意味なのである。



「われ思う、ゆえにわれあり」で有名なデカルトが

じっとしている猟犬が撃たれた獲物を発見すると反射的に捕らえにいくように仕込まれるように

人間の理性も、またそのように訓練されるのだと述べているそうだ。

受動的であることを受け入れつつ、そこから立ち上がる能動性こそが「理性」である、

ということのようだ。


デジタル界隈でよく使われる単語に

「subject」があるが、

「主題」であると同時に「従属する(者)」という意味もある。

「主」にして「従」。

ここに「人間」の存在のありかたの鍵あるようだ。

ところで、


もはや見なくなって久しいお笑い芸人に「パッション屋良」という人がいたが

多少なりともテレビで見た時期があったことからすると

今は、「受難」の時代を生きているのかもしれない。

芸能人として売れるということも、思いのままにはならないものなのだろう。

それだからこそ、芸が好きであれば好きなことに情熱を傾けることに

人は自然と促されるに違いない。



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