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大泉パラダイスのブログです。
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昔「月間OUT」に「宇宙編集者アウトシャイダー」という連載企画があった。
「宇宙刑事シャイダー」のパロディでOUTの編集長がアウトシャイダーの着ぐるみを着ての
グラビア連載だったと記憶する。
といってもかなりうろ覚えなのだが、
この中で「ヨモスエ」という言葉が、世界観を表す単語として使われていた。
悪の秘密結社の名前か何かだったような気がするが
もちろん「世も末」を片仮名表記したものだ。
アニメのパロディなどで雑誌を出していること自体をセルフパロディにしたこの企画を
象徴的に表現していた気がする。
「こんな雑誌が人気なんてヨモスエだ」といったニュアンス。
まだ「ヨモスエ」が笑って享受できた、ということを懐かしく思う。
そして今「ヨモスエ」と片仮名で表すことは、「ノリ」を間違えるだろう。
人類破滅の年と言われた1999年は前後はまだ良かったと思う。
アメリカで大規模テロが起こった2001年も、ああいうことを起こす人間がいたことを
批判的に捉えることが可能だったという意味でまた健全な時代だったと思い起こすことができる。
「世も末」と感じるようになったのは、ここ十年ほどであるが
昨日のイギリスの国民投票の結果は、こうした感覚の決定打になった。
Zガンダムの富野由悠季の言葉で言えば「重力に魂を引かれた人々」が過半数を占めた、という感覚である。
ただ、こう書きながらも私自身は実は絶望していないということを書きたいのである。
私が「この人はまともだ」と思っている人が、イギリスの国民投票の結果を受けて
久し振りにメールをくれた。
相当ディプレッシブになっている(つまり落胆している)。
本当に「世も末だ」と実感する時があるとすれば、
まともな人だと思っていた人が、まともではない様子を見せた時だろう。
ろくでもない人が、ろくでもないことをするのはありふれたことだ。
彼の落胆は、彼がまだまともであることの端的な表れであり、私は安心した。
私からの返信の内容は言うまでもないだろう。
「まともでいよう」
それだけである。ただしメールでの文面はかなり違うが、要はそういうことである。
「宇宙刑事シャイダー」のパロディでOUTの編集長がアウトシャイダーの着ぐるみを着ての
グラビア連載だったと記憶する。
といってもかなりうろ覚えなのだが、
この中で「ヨモスエ」という言葉が、世界観を表す単語として使われていた。
悪の秘密結社の名前か何かだったような気がするが
もちろん「世も末」を片仮名表記したものだ。
アニメのパロディなどで雑誌を出していること自体をセルフパロディにしたこの企画を
象徴的に表現していた気がする。
「こんな雑誌が人気なんてヨモスエだ」といったニュアンス。
まだ「ヨモスエ」が笑って享受できた、ということを懐かしく思う。
そして今「ヨモスエ」と片仮名で表すことは、「ノリ」を間違えるだろう。
人類破滅の年と言われた1999年は前後はまだ良かったと思う。
アメリカで大規模テロが起こった2001年も、ああいうことを起こす人間がいたことを
批判的に捉えることが可能だったという意味でまた健全な時代だったと思い起こすことができる。
「世も末」と感じるようになったのは、ここ十年ほどであるが
昨日のイギリスの国民投票の結果は、こうした感覚の決定打になった。
Zガンダムの富野由悠季の言葉で言えば「重力に魂を引かれた人々」が過半数を占めた、という感覚である。
ただ、こう書きながらも私自身は実は絶望していないということを書きたいのである。
私が「この人はまともだ」と思っている人が、イギリスの国民投票の結果を受けて
久し振りにメールをくれた。
相当ディプレッシブになっている(つまり落胆している)。
本当に「世も末だ」と実感する時があるとすれば、
まともな人だと思っていた人が、まともではない様子を見せた時だろう。
ろくでもない人が、ろくでもないことをするのはありふれたことだ。
彼の落胆は、彼がまだまともであることの端的な表れであり、私は安心した。
私からの返信の内容は言うまでもないだろう。
「まともでいよう」
それだけである。ただしメールでの文面はかなり違うが、要はそういうことである。
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安彦良和が
「永井豪さんが「ロボットを兵器にするのだけは考えつかなかった」と言って下さった」
といったような話をよくするが
しかし、子供ながらに「マジンガーZ」に〝戦乱の予兆〟みたいなものを
そこはかとなく感じていたのではないか。
ポイントは挿入歌「Zのテーマ」である。
もう一つは、後期OPと、劇場版「マジンガーZ対暗黒大将軍」にある。
「対暗黒大将軍」は、全世界が混乱の中にあり、主人公・兜甲児が死を覚悟して戦うというプロットに主な要因がある。
後期OPは、機械獣軍団による都市破壊と、パラシュート部隊の降下ショットに。
そして「マジンガーZ」というシリーズ全体の通奏低音として機能しているのが「Zのテーマ」である。
おそらく、これに異論のある人はほとんどいないだろう。
マジンガーZのかっこよさは、この歌のイメージに負うところが大きいはずだ。
「人の命は尽きるとも、不滅の力マジンガーZ」
「この世の果てが来ようとも、不滅の体マジンガーZ」
これは、それが人工物であるが故に、人間よりも長生きだ、と歌っているように一見みえるが、
歌詞の他の部分と読み合わせると、「人間の精神」を謳っていることがわかる。
「争い絶えないこの世の中に」
「黒い霧まく この世の中に」
敵キャラクター・ドクターヘルなどの固有名詞を使っていないことに
(作詞は小池一雄である)
「悪」の一般性を滲ませているところが、この歌全体の結構を構える上での強力な背筋の役割を果たしている。
意訳すれば「世の中がどうあろうとも」である。
そして次に人間の絶えざる営みが語られる。
「幸せ求めて悪を討つ」
「平和を求めて悪を討つ」
これの主体が「マジンガーZ」ではないのは、行間から明らかだろう、主語は「人間」である。
「人の頭脳を加えた時に」
「人の心を加えた時に」
ここで、マジンガーZが「人間精神の容れ物」であることがはっきりする。
人間の頭脳・心が主体であって、その手足となるマジンガーZを使って、そして以下だ
「お前こそ勇気、もたらす」
「お前こそ未来、もたらす」
この歌詞に読み込むべきなのは、「俺」だろう。
俺に勇気をくれる 俺に未来を切り開く勇気をもらえる。
この歌詞は、メロディーも相俟って、マイナーなトーンが全体を覆っている。
その背骨が「争いが絶えない」という「この世界」観である。
そして「それでも」「敢えて」、幸せを求めて悪を討とうとする決意の悲壮。
これが謳われていることが、聞く者が落涙を禁じ得ないまでの心の揺さぶりを惹起する。
さて、現実に目を向けよう。
イギリスの国民投票の結果の、株価の暴落は、世界の人々の失望の証だろう。
民主主義的な手続きに則った結果、人間自身が行った選択によって人間は不幸になり得ることを
ヒトラーが正当な選挙によって選ばれた人気者だったことによって
人類は記憶しているはずだ。
イギリスで過半数の人が行ったこの選択が、新たな不幸につながらないような叡智が今こそ試されているのではないだろうか。
「永井豪さんが「ロボットを兵器にするのだけは考えつかなかった」と言って下さった」
といったような話をよくするが
しかし、子供ながらに「マジンガーZ」に〝戦乱の予兆〟みたいなものを
そこはかとなく感じていたのではないか。
ポイントは挿入歌「Zのテーマ」である。
もう一つは、後期OPと、劇場版「マジンガーZ対暗黒大将軍」にある。
「対暗黒大将軍」は、全世界が混乱の中にあり、主人公・兜甲児が死を覚悟して戦うというプロットに主な要因がある。
後期OPは、機械獣軍団による都市破壊と、パラシュート部隊の降下ショットに。
そして「マジンガーZ」というシリーズ全体の通奏低音として機能しているのが「Zのテーマ」である。
おそらく、これに異論のある人はほとんどいないだろう。
マジンガーZのかっこよさは、この歌のイメージに負うところが大きいはずだ。
「人の命は尽きるとも、不滅の力マジンガーZ」
「この世の果てが来ようとも、不滅の体マジンガーZ」
これは、それが人工物であるが故に、人間よりも長生きだ、と歌っているように一見みえるが、
歌詞の他の部分と読み合わせると、「人間の精神」を謳っていることがわかる。
「争い絶えないこの世の中に」
「黒い霧まく この世の中に」
敵キャラクター・ドクターヘルなどの固有名詞を使っていないことに
(作詞は小池一雄である)
「悪」の一般性を滲ませているところが、この歌全体の結構を構える上での強力な背筋の役割を果たしている。
意訳すれば「世の中がどうあろうとも」である。
そして次に人間の絶えざる営みが語られる。
「幸せ求めて悪を討つ」
「平和を求めて悪を討つ」
これの主体が「マジンガーZ」ではないのは、行間から明らかだろう、主語は「人間」である。
「人の頭脳を加えた時に」
「人の心を加えた時に」
ここで、マジンガーZが「人間精神の容れ物」であることがはっきりする。
人間の頭脳・心が主体であって、その手足となるマジンガーZを使って、そして以下だ
「お前こそ勇気、もたらす」
「お前こそ未来、もたらす」
この歌詞に読み込むべきなのは、「俺」だろう。
俺に勇気をくれる 俺に未来を切り開く勇気をもらえる。
この歌詞は、メロディーも相俟って、マイナーなトーンが全体を覆っている。
その背骨が「争いが絶えない」という「この世界」観である。
そして「それでも」「敢えて」、幸せを求めて悪を討とうとする決意の悲壮。
これが謳われていることが、聞く者が落涙を禁じ得ないまでの心の揺さぶりを惹起する。
さて、現実に目を向けよう。
イギリスの国民投票の結果の、株価の暴落は、世界の人々の失望の証だろう。
民主主義的な手続きに則った結果、人間自身が行った選択によって人間は不幸になり得ることを
ヒトラーが正当な選挙によって選ばれた人気者だったことによって
人類は記憶しているはずだ。
イギリスで過半数の人が行ったこの選択が、新たな不幸につながらないような叡智が今こそ試されているのではないだろうか。
ツイッターの普及は
そもそも意見交換し議論をする土壌のない多くの日本人に
印象操作によって、多数派工作をするような
広告代理店的なやり方を、一般人の「作法」として身に着けさせてしまったのではないだろうか。
似ていると思しき二つのものを並べて「完全一致」とする言い方を目にするようになって久しい。(個人的にはここ一、二年だろうか。もっと長いかも知れない)
「似ている」という言葉の曖昧さを排して「完全一致」とすることで「似ている」実態を
表現しようとしている。読む(見る)方は、それぞれに共通点を見出して「あーあー」と納得する。
大袈裟な言い回しで関心を喚起して、納得だけを引き出す。
この手法が行き渡れば「ここがこう」「どこはどう」という物の見方はうざったいものとされていくだろう。
「自分はこう思う」という感性が退却して「たぶんみんながこう思ってる」という
空気を読む作法が蔓延していくに違いない。
経済学者ケインズ言うところの「美人コンテスト理論」によって世論が傾いてしまうようなメンタリティが
もはやのっぴきならないまでに、人々の行動を左右していることの証しの一つが
イギリスの国民投票におけるEU離脱への一票なのだろう。
水が低きに流れるように、人間の精神も重力に引かれるように、
感情的な印象論に支配されがちになっている。
メディアによる影響のされやすさ、というのが根本的な理由で、
おそらく、メディア、たとえば自分が好きなメディア(アニメならアニメ、音楽なら音楽)に対して
一切、批判できないような心性が人間の隅々にまで行き渡った時に、
メディアを活用できる側の人間だけが甘い汁を吸えるような世界が訪れるのだろう。
そもそも意見交換し議論をする土壌のない多くの日本人に
印象操作によって、多数派工作をするような
広告代理店的なやり方を、一般人の「作法」として身に着けさせてしまったのではないだろうか。
似ていると思しき二つのものを並べて「完全一致」とする言い方を目にするようになって久しい。(個人的にはここ一、二年だろうか。もっと長いかも知れない)
「似ている」という言葉の曖昧さを排して「完全一致」とすることで「似ている」実態を
表現しようとしている。読む(見る)方は、それぞれに共通点を見出して「あーあー」と納得する。
大袈裟な言い回しで関心を喚起して、納得だけを引き出す。
この手法が行き渡れば「ここがこう」「どこはどう」という物の見方はうざったいものとされていくだろう。
「自分はこう思う」という感性が退却して「たぶんみんながこう思ってる」という
空気を読む作法が蔓延していくに違いない。
経済学者ケインズ言うところの「美人コンテスト理論」によって世論が傾いてしまうようなメンタリティが
もはやのっぴきならないまでに、人々の行動を左右していることの証しの一つが
イギリスの国民投票におけるEU離脱への一票なのだろう。
水が低きに流れるように、人間の精神も重力に引かれるように、
感情的な印象論に支配されがちになっている。
メディアによる影響のされやすさ、というのが根本的な理由で、
おそらく、メディア、たとえば自分が好きなメディア(アニメならアニメ、音楽なら音楽)に対して
一切、批判できないような心性が人間の隅々にまで行き渡った時に、
メディアを活用できる側の人間だけが甘い汁を吸えるような世界が訪れるのだろう。
おそらく、というか見事にリンクしている極めて現代的というかポストモダン的というか
「今」的な問題なのだと思う。
「今」的な問題なのだと思う。
「批判する」と「批判的態度(で物を見る)」ということは違う。
大事なのは後者だ。
「批判的な態度」とは「鵜呑みにしないこと」である。
かと言って頭から信じないと決めてかかることでもない。
一旦話を聞いて、判断をしたり、あるいは判断を保留したり、
そうした上で態度決定する態度、のことである。
その上で批判する場合もあれば、批判しないことだってあり得る。
なので
「批判的態度」の中には「批判しないこと」だって含まれる。
言ってみれば、相手の土俵に一旦乗った上で結論を出す、ノリツッコミみたいなものかも知れない。
いや、ノリツッコマずもあり得る。
なんだノリツッコマズって。韓国のお酒みたいだな。マッコリか。
大事なのは後者だ。
「批判的な態度」とは「鵜呑みにしないこと」である。
かと言って頭から信じないと決めてかかることでもない。
一旦話を聞いて、判断をしたり、あるいは判断を保留したり、
そうした上で態度決定する態度、のことである。
その上で批判する場合もあれば、批判しないことだってあり得る。
なので
「批判的態度」の中には「批判しないこと」だって含まれる。
言ってみれば、相手の土俵に一旦乗った上で結論を出す、ノリツッコミみたいなものかも知れない。
いや、ノリツッコマずもあり得る。
なんだノリツッコマズって。韓国のお酒みたいだな。マッコリか。