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特撮・アニメの作品レビューの同人誌を発行しています 大泉パラダイスのブログです。
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昨今のスポーツが、電通などの広告代理店の影響などもあって

一定の時間内に収まるようなイベントになりつつあり、という話の中のたとえで

宮台真司から「3分間の中で最後にスペシウム光線やアイスラッガーを使うのはプロレス的」

という例えが出た。

神保哲生からはもはや本筋ではない話として「手から光線が出るのにチョップを使うのはおかしい」「手は火傷しないのか」
などの、いわゆる昔風の「ツッコミ」的な意見もあったり。

そんな流れで、精神科医の斎藤環の回を見たら、

十年前にオタクについての回があるというのでそちらを先に見た。


ガンダムの劇場版が上映されていた時に、セイラさんの入浴シーンで一斉にフラッシュが焚かれ

そこから、アニメでエロものがいけるのではないかと発想されて「くりいむレモン」に繋がった、

という話は知らなかったが、まあ、セイラさんに限らず当然出た発想だろう。

そこには一つの「発見」があったと思う。


昨今のアニメ環境の中で、個人的に誰かに説明を求めたいと思っているのが

ヤマト、ガンダムのアニメブームの渦中にいた世代が

いまだに、女の子のキャラがメインキャラのほとんどを占めるような作品を

見ていたられるメンタリティについてである。


個人的には今のアニメはほとんど見ない、というと誤解されたのだが

さぼってて見ないのではなく、正直「見てられない」という気持ち。

この辺、慎重に書きたいので、また別項に。

話を飛ばすと


前のブログ(ウルトラマンと立派な人の関係)で、さわりだけ書いたが、

女の子キャラだけの友情やら何やらに思い入れできる、というメンタリティは

若い人、つまりアニメブームの熱狂を知らない世代に人はいいとして

あれを知っている人が、今なお思い入れできる、というのは

同じ夢にいつまでも耽溺できる、ということなのかと、だんだん分かってきた。


おそらく、我々が若い時にアニメに「燃えた」のは、そこに「発見」があったからである。

大海原の中から得た海産物の中に、ある旨味を発見して、

それを「だし」という名前をつけて味わったりすることが出来た。

やがて、その成分研究が進んでグルタミン酸と名付けられ、

それをふりかければ同じ旨味が再現できる「味の素」が発売され、

みな、それを使うようになった。今が、この

「味の素」さえあれば「あの」旨さをいつでも堪能できる、という時代である。


アニメという名前すら社会的に認知されていなかった時代には

「これ」はいいいものだ、この味は自分には間違いなく旨いと感じる、

周囲の無理解などお構いなしに、いや理解されていないからこそこの「旨さ」には

「この旨さを感じること」には価値がある、そう確信できた、

それはまさに「旨さの発見」であった。

それが世代間に伝達されていく中で、グルタミン酸ならぬ「萌え」と名付けられたりしたのは

そうした「旨さ」の中の、目立つある部分でしかない。

味の素の形にまでなってしまったものは「これ」ではなく「それ」となり、

みんなが「それそれ」と言い合えるものとなったが

「これ」が持っていた輝き(哲学者のベンヤミンの言葉でアウラというのは宮台真司がよく用いる)がもはやないのだが、

しかし「ない」と言いきって言いのかどうかに迷いが生じるのは

「味の素」自体の旨さに対して、精製や精練における練度や精度みたいなことが生じるだろう、

とは思うからだ。

ただ、個人的には体験や経験は確かに豊かだったし、その豊かさ故にアニメ以外に対しての

ものの見方や感じ方の豊富さがあると思うので

味の素の商品スペックには正直興味が薄い(まあ見れば「なるほど」とは思う)。


同じ世代でも、今だに味の素を舐め続けているのが、なぜなのか、というのは

今度、勇気を出して人に聞いてみたいと思っている。

ただ、それも慎重にならなければいけないと思うのは

同世代であっても、文化的な遅延があって(地方に住んでいるなど)

やや、渦の中心から離れた所で眺めていた、という人には

やはり、当時にあっても、大海原から旨味を発見した悦びには与っていなかった可能性もある。

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